成田悠輔「集団自決」発言について
はじめに
約1年前に成田悠輔氏が「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と提唱したことに関して、Twitter上で批判が飛び交っている。
以上のツイートから読み取れるように、たとえ成田氏が「集団自決」という語をレトリックとして用いていると理解されていても、その発言はけっして容認し難く、彼の倫理観が欠如しているものとして受け止められている。
成田悠輔「集団自決」発言の文脈
いずれにせよ成田氏の「集団自決」発言の文脈を押さえておく必要がある。経営者をはじめとする高齢者の重鎮は、偉い地位を確立し手厚い給与という特権を保障されている。にもかかわらず、実際には平社員よりもすでに生産性が低く、場合によっては理解できない事柄に頓珍漢な横槍を入れることで組織の生産性を落とすような——これを「老害化」と呼ぶ——存在である。そのような高齢男性が優遇される階級社会の問題点を解決するために、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」(ここで成田氏が「すべき」と述べていない点には注意されたい)と成田氏は述べるわけである。
「口にしちゃいけないって言われてることは、だいたい正しい」
成田氏のTwitterアカウントのbio(自己紹介)の欄には「口にしちゃいけないって言われてることは、だいたい正しい」と書かれている。「口にしちゃいけないって言われていること」は、基本的には親や教師、先輩等の教育を通じて学ぶことがらであって、それゆえ誰からも指導を受けていなければ「口にしちゃいけないって言われていること」が何なのかというのは知らないはずである。「口にしちゃいけないって言われていること」は条件反射的に我々の思考と言語体系に幼少期から刷り込まれるものであり、そのことを自覚できるかどうかという点に関しては大いに怪しいところがある。直感には反するが、順を追って論証されれば正しいこととして認識されうる事柄がたくさんある。
「高齢者は集団自決すべき」は「人としての倫理を大きく踏み外している」のか?
若林宣氏の発言に対して述べておく。Twitterでも同様のことを述べたので繰り返しになるが、「高齢者が集団自決「すべき」か否か」は「道徳」的命題ではあるが、「老害化する前に生産性の低い経営者や重鎮がみずから集団自決することを社会問題の解決策として提唱すること」は「倫理」の枠内で議論されるべき問題ではあると考える。ちなみに、ここで「道徳 Moralität」と「倫理 Sittlichkeit」の区別は、ヘーゲル『法の哲学』におけるそれらに基づいている。
「高齢者は集団自決「すべき」である」という肯定的命題、あるいは「高齢者は集団自決を「すべき」ではない」という否定的命題のいずれも、それらは表裏一体の「道徳」の枠内での問題であり、「倫理」の枠内での問題ではない。「高齢者は集団自決「すべき」である」という「道徳」的命題が「人としての「倫理」を大きく踏み外している」というのでれば、それは「道徳」と「倫理」とが区別される限りにおいてその通りだと言える。
老害化する「前」と老害化した「後」
成田氏は「高齢者は老害化した「後に」集団自決」するのではなく「老害化する「前に」集団自決」することを提唱している。「老害」とは、理性を失い、周囲に不適切に介入することによって害悪を撒き散らす存在である。もし理性を失って「老害」化してしまったら、彼らはもはや人間とは呼べず、むしろ動物に近い存在になる(〈動物化する老人たち〉とでも言おうか)。ヘーゲルは人間と動物の違いとして、人間は自殺できるが動物は自殺できないという点をあげている。人間が自殺できるのは理性があるからであり、動物はそうでない。「高齢者が老害化した「後に」集団自決」することは、老害化が動物化と同義である限りで、それは不可能なのである。
筆者と小田さんとのやりとり(1月12〜13日)
成田氏の「集団自決」発言の件については、Twitter上で熱りが冷めてきているので、今更書く必要はないかもしれない。だが、Twitterで小田智敏さんよりコメントを頂いた際に、ブログでお答えするとお約束したので、なんとか形にしてみようと思う。筆者(荒川)と小田さんとのTwitterでのやりとりは以下の通りである。
上の会話では、筆者と小田さんはそれぞれ次のように主張していた。
成田氏が提唱する「集団自決」は、倫理 Sittlichkeit の問題である。(筆者)
成田氏が「集団自決」を倫理的な sittlich 問題として提起しているようには聞こえない。(小田)
小田さんのいう、成田氏が高齢者の集団自決を倫理的な問題として提起しているようには聞こえないという主張について述べておくと、その通りである。成田氏は「高齢者は老害化する前に集団自決したほうがいい」という解決策を提示しているだけで、倫理的な問題としては提起していない。彼の倫理観に問題があると述べているのは、あくまでTwitter上で成田氏の「集団自決」発言をそのように受け取った人々なのである。
成田氏の「集団自決」発言は経済合理性に基づいているか
では成田氏が提唱する「高齢者は老害化する前に集団自決」という解決策は、倫理的な問題として提起されていないとすれば、どういうロジックで提起されているだろうか。この点についてはすでに引用したtweet群の中に経済合理性の観点からだとの指摘が見受けられた。だが経済合理性と言ってしまうと、何か単純化されすぎているのではないか。何を「経済合理性」とするかは、その国や共同体のあり方によって変わるのではないか。アダム・スミスの『国富論』では、冒頭で狩猟採集社会が取り上げられているが、その際、スミスは狩猟や漁労にいけない老人や弱い者たちは食料を分け与えられる立場にいたことに触れている*4。スミスのいう「未開民族」がいわば労働生産性の低い人々を養うような共同体を形成していた点は示唆に富んでいる。
ヘーゲル法哲学の図式で言えば、経済合理性というものはいわば市民社会の法であって、国家の法ではない。市民社会の法は「倫理の喪失」(§181)であるから、経済合理性というものは基本的に倫理に相反するものである。
【追記】筆者と小田さんとのやりとり(1月18〜19日)
昨日までに整理した点を踏まえて、ヘーゲル法哲学における「集団自決」の位置付けをめぐって、昨日、筆者(荒川)と小田さんとのTwitter上で再びやりとりをさせていただいた。個人的には非常に面白い議論がなされているので、以下でご紹介させていただくことにする。
以上が筆者と小田さんとのTwitter上のやりとりである。Twitterでのリプライという形式を取っているため、若干議論が錯綜しているように感じられるかもしれない。
筆者が問題としていたのは、成田氏の「集団自決」の件をセンセーショナルに受け取っているTwitter上の批判者がそれを倫理的な問題として言及している際の、その「倫理」の用語法である。そこで筆者が引き合いに出したのがヘーゲル法哲学における「道徳」と「倫理」の区別であり、それをさらに「集団自決」というトピックに絡めて言及したのである。成田氏の主張は100年後には忘れ去られているであろうが、哲学者の主張は200年後でも2,000年後でも生き続ける。したがって、成田氏のレトリカルな「集団自決」発言を批判するならば、そのような小物以上に耐用年数が長い言説である哲学者のそれを批判することの方がよっぽど重要だ、というのが筆者の主張である。これに対して小田さんが疑問視しているのは、最終的に「集団自決」を肯定するようなロジックがヘーゲルのテクストにあるという筆者の主張である。この点に限り、小田さんはヘーゲル法哲学の解釈をめぐる問題について議論したかったのであって、小田さんからすれば成田氏のいう「集団自決」の件はどうでもいい、ということになる。したがって、筆者と小田さんの解釈は次のように分かれている。
結果的に「集団自決」を肯定するようなロジックが、ヘーゲル法哲学のテクストのなかにある。(荒川)
ヘーゲル法哲学のテクストは、「集団自決」を正当化しない。(小田)
小田さんの主張は、直接的には、ヘーゲルのテクストに即したものであるように見える。だがそれは、成田氏のいう「集団自決」をヘーゲルのいう「自殺」と単純に同一視しているからではないか。筆者の考えでは、成田氏の「集団自決」とヘーゲルのいう「自殺」は同一視できない。一見すると、「集団自決」も「自殺」も人間の意志で行いうる自死であるように思われるかもしれない。だが、成田氏のいう「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいいという言説は、一面では資本の論理に支えられている。すなわち、労働市場において労働生産性が高いことが良しとされるというイデオロギーがなければ、「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいいという言説は成り立たないのである。ここで「高齢者」というのは、我々の周囲にいる「高齢者」ではなく、特別高い労働生産性を持たなくても数千万円もの所得を得ている重鎮経営者のことを指していることは、成田氏の発言の文脈から明らかである。個々の人間が24時間という共通の時間配分の中で行える労働生産性はたかが知れているのだが、平均所得から著しく乖離した重鎮経営者がろくに仕事もしていないのに労働市場で甘い蜜を吸っていることに対する皮肉であり、しかも安月給で働く我々(ここには一般的な「高齢者」を含む)こそが労働生産性を厳しく追われているのである。こうした問題をデヴィッド・グレーバーは「ブルシット・ジョブ」と呼んでいる(グレーバー2020)。
ヘーゲル法哲学の解釈に話を戻そう。ヘーゲルの意志論では、人間は自殺することができる。このことは経験的に明らかであり、ヘーゲルもこの点を認めている(§5)。ただし、自殺をファナティスティックなものと捉えており、良い意味では認めていない。それを踏まえて、第一部「抽象的な権利」の段階では、ヘーゲルは自殺する権利を認めていない(§70)。これはSF作家のアイザック・アシモフがロボット三原則の第三条で唱えたように、自分の生命を放棄してはならないとされる。
自由に処分することができるのは人格性にとって外面的な所有物だけであって、生命は人格性の存在そのものであるから、自我に生命を放棄する権利はないとされる。ヘーゲルによれば、死とは外からやってくるものであって、自らの内在的な意志によって遂行されるべきものではない。ここだけ見れば、ヘーゲルのロジックからすれば、「集団自決」は自殺と同様に容認し難いものであるように思われる。だがそれは、「集団自決」を自らの内在的な意志によって遂行されると勘違いしているからである。成田氏が「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいい、と述べたことを受けて、仮に重鎮経営者が退陣=集団自決したとする。これは、はたして自らの意志で退陣=集団自決したことになるだろうか?自ら退陣するかその座に居座り続けるかによって、どちらが結果的に日本の労働生産性ないしはGDPの向上につながるかを比較衡量した上で、退陣=集団自決した方が望ましいからそうするのだとすれば、判断の基準は自らの内在的な意志にあるのではなく、客観的な指標(営業利益や健康、環境への配慮など様々な指標ではかられる)という外在的なものが指標になっている。ヘーゲル的に言えば、国家の権利と抽象的な個人の権利を比較して、最終的にどちらを優先するのかという問題である*5。自殺も同様に、ヤクザから借りた借金が返せなくなって無理心中とか、過労自殺に追い込まれるとかは、その人が生きる環境が自殺に追い込んでいると理解するのが理性のある判断であって、そうした自殺が個人の内在的な意志で行われているとみなすことは、事態を十分に理解しているとはいえない。ここで援用されるべきは、フーコー以降の主体=従属化理論であって、我々はいかにしてそれがあたかも自らの意志で動いているかのように勘違いしていて、実際には資本の論理をいかに内在化させて自己規律化しているのかを知ることが重要である。
ヘーゲルは戦争を対外主権性のリアリズムに基づいて容認するが、事物に即していうならば、戦争は殺し合いであり、参戦した兵士は自分が死ぬことを知っている。戦争をすることは自殺に近づいていくことに等しい。極限に近づくにつれて、戦争は自殺と同義である。だが、戦争は外的な要因によってなされるから、その死はヘーゲルのロジックでは肯定されることになる。
筆者は最初に「ヘーゲルの意志論は結果的には「集団自決」も肯定する」と述べているが、ここで「結果的に」というのは、弁証法的にいうなれば、直接性の契機が否定されて、それを媒介として反省的に導出される結果であって、それが第三部「倫理 Sittlichkeit」という形態をとる。最終的に戦争において死が外的なかたちで容認されるとするならば、「集団自決」という限りなく自分の意志に基づくように見えながらもしかし国家によって——というより一人当たり労働生産性のGDPへの寄与というナショナルな指標によって——強要される自殺行為も、ヘーゲルのロジックならば許容されるのではないかと考える。だがこれは批判されるべき事柄であって、我々がそれを許容する必要はない。むしろ現代に必要なのはヘーゲルのそれを乗り越えるようなロジックである。宗教批判は終わったとしても、ヘーゲル法哲学批判はまだ終わっていない。
追伸:小田さん、夜分遅くまでやりとりしていただきありがとうございました。
注
*1: §70「外的活動の包括的な総体性すなわち生命は、それ自身このものであるとともに直接的なものである人格性に対して何ら外面的なものではない。生命を放棄したり、犠牲に供したりすることは、むしろこの人格性が定在することの反対である。それゆえに、私は総じて生命を放棄するいかなる権利ももっていないが、人倫的理念だけは、そのもとでこの直接的に個別的な人格性が即自的には没落し去っているもの、また人格性の現実的な力であるものとして、生命の放棄の権利をもつ。そこで、生命そのものが直接的なものであると同時に、死もまた生命の直接的否定性であるので、死は、そとから、自然的なできごととして、あるいは、理念に身を捧げて、みなれぬ手から受け取られなくてはならないということになる。」(ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻精ほか訳、198〜199頁)。
*2: §70 Zusatz「個々の人格は、いうまでもなく、人倫的な全体に献身しなくてはならない従属者である。それゆえに、国家が生命を要求するときには、個人は生命を犠牲に供しなくてはならない。しかし、人間には自分自身で自分の生命を奪うことが許されているだろうか。ひとは自殺をさしあたり勇気ある行為とみなすことができるかもしれない。しかし、それは仕立屋や女中の悪しき勇気としてである。また、自殺は、内面の分裂が招いた結果として、一個の不幸としてもみなされる。しかし、肝心な問いは、私が自殺する権利をもっているかということである。答えは、私は、個人としては私の生命の主人ではないということである。というのも、それ自身直接的にこのものである人格性に対して、活動の包括的な総体性である生命は外面的なものではないからである。だから、誰かが、人格が自分の生命におよぼす権利に語るとすれば、それは矛盾したことであろう。というのも、それは、人格は自分におよぼす権利をもつというに等しいことだからである。しかし、人格はこうした権利をもってはいない。というのは、人格は自分のうえにたって、自分を裁くことはできないからである。ヘラクレスが焼身自殺し、ブルータスが自刃するとき、こうした行為は自分の人格性に反対する英雄のふるまいである。しかし、単なる自殺する権利が問題とされるならば、このような権利は英雄に対しても否認されなければならない。」(ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻精ほか訳、199〜200頁)。
*3: §5 Zusatz「意志のこの要素のうちには、私はいっさいのものから私自身を解放することができる、いっさいの目的を放棄することができる、いっさいを捨象することができる、ということが存している。人間のみがいっさいのものを、自分の生命さえも放擲することができる。人間は自殺を敢行することができるのである。動物はこうしたことをなしえない。」(ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻精ほか訳、71頁)。
*4: 「猟師と漁師だけしか住まないような未開の国のばあい、労働能力をもつすべての人間は、有用な労働——高齢のため、あるいは、幼かったり虚弱であったりするため、狩猟や漁労に従事できない家庭や部族の人々や自分自身のために、可能なかぎり生活必需品や便宜品を提供しようとする努力——に従事している。」(アダム・スミス『国富論(上)』高哲男訳、27〜28頁)。
*5: もしホッブズのような思想家ならば、自らの死を前にしては個人の権利が優先される。これに対して、ヘーゲルは法哲学の中で契約論的な国家観を批判しているので、単純に社会契約論と同様のロジックを取ることはできない。
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