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〝憲法という「温泉」〟ー論理秩序の再構築


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〝憲法という「温泉」〟ー論理秩序の再構築



【護憲派(リベラル)の湯】

「アメリカの戦争に巻き込まれたくないという、成分を含んだ50度の熱湯」と、「でも、アメリカに守ってほしいという、成分を含んだ同量の10度の冷水」を混ぜ合わせた摂氏30度のお湯。

【改憲派(保守)の湯】
「アメリカに守ってほしいという、成分を含んだ50度の熱湯 」と、「でも、アメリカの戦争に巻き込まれたくないという、成分を含んだ同量の10度の冷水」を混ぜ合わせた摂氏30度のお湯。

いくらお互いの成分や効能の違いをアピールしてみても、その差異はあまりなく、共に「主権」の伴わない「お花畑論」で、摂氏30度の「ぬるま湯」であることには変わりがない。

30度のお湯と30度のお湯の場合、足しても、引いても、掻き回しても30度以上にはならない。つまり、この場合「量」が「示量性変数」で、「温度」は「示強性変数」となる。「量」は加減するが、「温度」は加減しない。そんなことくらいは子供でも解る。

国民投票でどちらが過半数を取ったとしても、お湯の「量」は確保できるが、それによって「温度」が上がることはない。わが国の憲法が「適温」を得て、ゆったり浸かれる「お湯」にはなることはないのだ。そればかりか、国民は「適温」のお湯を獲得するチャンスを、永遠に無くすことになりかねないのである。

「ぬるま湯」どうしの「論争」は何の意味も持たず、何万年かけて、お湯を掻き回しても「適温」になることはない。
つまり、「アメリカの戦争に巻き込まれたくないという成分」と、「アメリカに守ってほしいという成分」の「源泉」こそが問題なのである。

わが国がどのような国家を構築するのかという「公理」がなければ、文脈的な「命題」や「定理」を導き出すことなど出来ない。 「公理」は現実的である必要はないが、その「完結性」と「無矛盾性」が必要である。 ここをおさえないと、断片的で複雑な「定義」や「定理」が飛び交う、まるで「数学」や「哲学」のような議論から抜け出すことは出来ないのである。

「温泉法」では泉源における水温が摂氏25度以上ものは全て「温泉」とされている。そういう意味では30度のお湯でも立派な「温泉」であると言える。しかし、30度の「温泉」には誰も浸かりたいとは思わない。

日本の「温泉」はアメリカ人にとっての適温に合わす必要はなく、私たちに必要なのは日本人の誰もが、いや、ほんとうに「温泉」を必要とする人々こそが、安心してゆっくりくつろいで湯治の出来る、40度前後の適温のお湯が必要なのだ。「温泉」においてもっとも重要なのは「温度」である。

民主主義においては、一定の「加水」による温度調整は必要である。だからこそ、憲法には国民の圧倒数が納得できる熱量を持った「源泉」、つまり「公理」が必要とされるのである。

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