見出し画像

金木犀2

ー 3 ー

コンビニを出てゆくあてもなく住宅街を歩く。思いつきで決めた散歩で目的地もないため、特に見どころもない民家や標識をぼけっと眺めながらふらふらと歩いた。そうだ、久しぶりに川沿いの土手でも歩いてみようか。少し気分も変わるかもしれないと思い、左に舵を切った。少ない機会しかない中でもお気に入りの場所だけは見つけていた。最近は特に疲労感が足を引っ張り家を出る気にもなれなかったため、初夏に行ったきりだった気がしていた。夏特有の空気に包まれて、緑の匂いと川の流れる音、遠くで騒ぐ環状線を感じながら缶ビールを片手に歩いたのが最後だったかな。別の世界にいるような感覚だけが、今の私にとって唯一の癒しだった。
いつも川沿いまで足を運ぶルートとは外れた場所にいたために、普段とは異なるルートで目的地を目指していた。道は違えど特段真新しさは感じず、さっき同様ぼけっとしながら歩いた。休日の早朝だからか、二人しか人を見かけなかった。住宅街だしもっと人とすれ違っても良さそうな気もしたけれど、六時過ぎだとこんなものなのかもしれないなと勝手に納得した。一人は犬の散歩をする五十代くらいの女性と、もう一人はおそらく七十近い気難しそうなおじいちゃんが庭の掃除をしていた。こんな時間に部屋着のような格好で歩く若い女性が珍しかったのか、目が合ってから数秒私を凝視していたけれど、すぐに関心を失くし掃除を再開した。なにか難癖をつけられるような気がして一瞬身構えたが、杞憂に終わり安堵する。こんな気分の時に面倒事に巻き込まれるなんて御免だった。普段なら気にも留めなさそうなことなのに、少し神経質になっているのかもしれないと思った。
相変わらず人も少ない変わり映えしない道を歩いていると、ほのかに懐かしい匂いがして反射的にそれを探した。すると十メートルほど先の民家の庭に、とても背の高い金木犀が静かに佇んでいるのを見つけた。
近所にこんな立派な金木犀があったなんて知らなかった。木の下まで足を運ぶとより強く匂った。甘く、かわいらしくも気高い匂い。どの季節もそれぞれにはない性格があって素敵だけれど、私は四季の中で秋が一番好きだった。強烈な暑さから寒い冬へ移ろいゆくこの短く儚い季節の空気が好きだった。そしてその空気に混じって感じるこの花の匂いが、止まらぬ時の残酷さと戻らぬ今の尊さを象徴するようで、他にはない私の特別だった。そして、思い出の花だった。
ー 次の家も、庭に金木犀を植えているお隣さんがいるところに引越そう。 ー
これも彼がくれた言葉だった。結局約束は果たされることはなく、私たちの生活は二つに割れてしまった。ずっと二人で生きていくものだと思っていた。いけるものだと思っていた。
出会いは、私が社会人二年目に入った年で、季節は春だった。大学は文学部に進学したけれど、高校は美術科だった私には美大卒の友人が多かった。高校時代の友人と久々に飲みに行った日に、偶然一緒に飲むことになった。彼は友人と大学時代の同期で、変な人がいると話題に上がることもしばしばあったため存在自体は以前から知っていた。飲みの席では二人で会話する機会もほとんどなかったため、さほど距離も縮まらずに解散したのだけれど、その後も友人を介して度々顔を合わせるうちに二人で会うことも少しずつ増えていった。彼は大学を出てからも画家として絵を描き続けていて、SNSで発信しつつ個展やギャラリーに作品を展示しながら派遣で稼いだお金で生活していた。高校を卒業してからは創作活動から離れていた私にとって、彼の話は新鮮で魅力的に映った。彼自身の作品の話、好きな画家の話、文学や映画の話など、二人で会う時の大半はカフェで話すだけという時間だったけれど、それでも仕事中心の生活を送っていた私には、単調な日々を色付かせる楽しい時間だった。そうしているうちに互いの家を行き来するようになり、どちらが気持ちを伝えたわけでもなく、気づけば恋仲へと関係は変わっていた。ちょうど今くらいの、出会ってから半年ほど経った秋の頃だった。
何分くらいここに立ち尽くしていたのか。通りかかった中年女性から怪訝そうな目で見られていることに気がつき慌ててその場をあとにした。



ー 4 ー

土手に到着すると先程より人が増えた。犬の散歩をしている人、ジョギングをしている人が主だった。夜が更けてから訪れることが多かったため、私が知っているこの場所の雰囲気とはまた違ったものを感じた。それでも環状線や川の音は変わらずそこにあって安心する。夜は人気ひとけがなくなるためどこでも気兼ねなく煙草を吸っていたのだけれど、流石にこの時間帯の歩き煙草ははばかられる。なので名の知らぬ雑草達が活き活きとした先の、少し拓けた高架下の川辺まで移動することにした。あそこならこの時間帯でも人はいないだろう。今の喫煙気分も然ることながら、元々人の多い場所が好きではないため、よほどのことがない限り私は昔から人混みを避ける習性があった。きっとそんなものはないのだけれど、自分の周りには見えない薄い膜みたいなものが張られていて、人が多いとそれが圧迫されて苦しい気分になるのだった。そのため、高校の頃から日常になった電車移動には未だに慣れず今でもどうしようもなくストレスに感じた。
相変わらず雑草たちは青青と生い茂っていた。どちらを吸うか少し悩んだ後、青い箱の封を開けた。
まだ早朝の肌寒い空気が居座り続けていたけれど、既に暖かい陽が射していて今日は秋晴れの良い天気になりそうだった。光を反射した川面は白銀の鱗のように眩しく、それ自体が大きな生きもののようで美しかった。
私はこの先どうしたいのだろう。どう生きていきたいのだろうか。思えば自分のした選択に後悔するばかりの人生だった気がする。好きだった描くことをやめてしまった時も、就職も、一年前に別れた時も。今まで内から響く声に少しでも耳を傾けたことがあっただろうか。いつも大事なところで弱い自分自身を守る選択肢ばかり選んでしまう自分を情けなく感じた。でも、だからこそ自分の過去に答えがある気もしていた。
相変わらず川面は眩しく光っている。少し目線を上げると雲ひとつない柔らかい青空が広がっていた。日陰から見ているからか、それはいつもより明るく、少しだけ近くに感じた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?