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金木犀1

プロローグ

ー 1 ー

目が覚めて時計に目をる。五時半を回ったところだった。引越した際にケチった遮光でないカーテンから、薄暗い外の様子がわかる淡いグレーの光が透けている。中途半端な時間に起きてしまったと寝起きにも関わらず妙に冴えた頭で考えながら体を起こしてキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて500mlの水が入ったペットボトルを手に取り一口飲んだ。乾いた喉に水が流れ込み、ごくりと音がした。休みである土日くらいゆっくり寝ることも叶わないのかと、自分の体を恨めしく思った。目は冴えてはいたが拭えない気だるさを感じる。仕事の日は七時にアラームを設定しているのだけれど、最近は眠りが浅いのか、けたたましいアラームが鳴る前に起きてしまうことが少なくなかった。そしてそれは、アラームを気にせずに寝ることができる休日も例外ではなかった。再び眠りについても良かったけれど気持ち良く寝付けそうにもなさそうだった。なにか口にしようかと冷蔵庫に目をったが、節約のための粗末な自炊で余した野菜たちと、現実逃避用の缶ビールしか入っておらず、それらが乱雑に横たわっている。仕方なく飲みかけの水を冷蔵庫に戻して洗面台へ向かう。リビングより廊下のフローリングの方が冷たくて、寝起きの温い足裏に心地良かった。
洗面台の前に立つと、鏡の中でもう一人の私が私を光のない目で見つめていた。我ながらひどい顔だと思った。昔に比べて全体的に生気がなくなっている気がする。特にくまが酷く、二十七歳を過ぎた辺りからさらに悪目立ちするようになった。元々おしゃれすることは好きだったし、社会人になってから三、四年は、美容や服、メイクにも気を使っていたのに、徐々に女として最低限のケアしかしなくなっていった。そしておしゃれに留まらず、全体的に様々なものへの興味が薄れていっている自分自身を感じては、呆れや失意の念はさらに増した。最近では何のために生きているのだろうと自身に問いかけては、そんな現実から目を背けるように酒を煽る日が増え、またそんな自分を客観視してはその怠惰さに嫌気が差すのだった。
顔を洗い終えてベランダに移動し、煙草に火を灯ける。夏の湿気を含んだ輪郭の曖昧な煙のような空気から、少しずつ輪郭のはっきりした鋭さを持つ冬の空気へ変わっていっているのを感じた。清涼感のある煙をゆっくりと吸い込み、またゆっくりと吐き出す。煙草を吸い始めたのは二十五歳の晩夏、当時交際していた恋人の影響だった。彼は出会った当初から喫煙者で、交際してからも「吸う必要が無いのなら吸わない方がいい」とよく私に言っていた。美味しそうなバツが悪いような、よくわからない苦笑いを浮かべながら吸っていた。彼から勧められたことこそなかったけれど、同棲開始から半年程経った頃に、興味本位で「一本ちょうだい」と言ってみたことがあった。彼は意外そうな表情を見せた後、心做しか嬉しそうに煙草を一本差し出し、私が咥えた煙草の先に火を灯けた。吸い方もよくわかっていない、せる私を半笑いで横目に、美味しい?と訊いてきたけれど、美味しいはずがなかった。仕返しに軽くはたいた彼の右手から煙草が跳ねて、着地した先がティーシャツで穴がいたのを思い出して、思わずクスっと笑った。最初のうちはたまにもらうだけだったのが自発的に別の銘柄を好んで買うようになり、いつしか私の生活に染み込んだ煙の匂いは、気づけばただの興味から"必要"なものへと変わっていた。
煙草に限らず色々なことを彼からは教わった。そんな彼と別れてから一年が経とうとしていた。あんなに長く感じられた一日一日が積み重なり、齢をひとつ重ねるほど時が経過していたことに素直に驚く。思い出さない日はなかった彼の顔やその思い出も、今では思い出さない日の方が多くなっていた。そんな今ですらそれが少しでも顔を覗かせようものなら、一言では形容し難いぐちゃぐちゃの感情が一瞬で心を冒し、何をしている時でも鬱屈な気分が私を支配した。ー 顔、声、匂い、口癖 ー 。一年が経った今でも、彼のことであれば昨日会ったかのように鮮明に脳裏で再生された。嬉しくもあったが、それ以上に吐いてしまいそうなくらい強い力で心を締め付けた。
灰皿を見ると既に二本が吸殻となり、三本目に手をつけていた。煙草は二年前からhi-liteメンソールを変わらず吸い続けていた。初めて吸ったのはCAMELの青いパッケージのレギュラーで、味に関しては不味かったことしか覚えていない。何が良くて吸っているのか訊いてみると、安いからという身も蓋もない答えが返ってきた。時々にもらい煙草を繰り返し、噎せない程度に慣れた頃、レギュラーからメンソールまで色々試してみた上で今の銘柄に落ち着いたのだけれど、未だにあの煙草の良さだけは安さ以外見出せていなかった。それでも妙に懐かしくなって偶に買ってしまい、吸う度にやっぱり不味いなと失笑するのだった。
三本目を吸い終えて室内に戻る。今日一日をどう過ごそうか考えた末に、このままだと暗い気分で一日を過ごしてしまう気がして、煙草を買うついでに久しぶりに散歩にでも出てみることにした。好きだった散歩も、この街に越してきてからは全くと言っていいほど気が向かず、数えるくらいしかできていない。軽く上着を羽織り、財布だけポケットに突っ込んで家を出た。



ー 2 ー

「112番をひとつください。」

「かしこまりましたー。」

金髪の若そうな男性店員が抑揚のない声で返事をして、迷いなく番号先へ向かった。家から歩いて三分程の場所にあるこのコンビニにはよくお世話になっていた。仕事終わりや深夜に来ることが多く、この店員は深夜帯メインで入っているようで顔を合わせることが多かった。残業で遅く帰る日などは疲労で自炊する気になれず、煙草だけでなく夕食を買うこともしばしばあるのだけど、私はこの店員があまり好きではなかった。ぶっきらぼうな態度は百歩譲っていいとして、彼が品出しをしている際にレジに呼び出すと、明らかに面倒そうな雰囲気を醸しながら雑に商品を袋に入れるのだ。私の心が狭いだけかもしれないと思いつつ、疲れた状態でその対応を目の当たりにするとおよそ客として気持ちの良いものではない。……そもそもコンビニ店員にサービスを求めること自体がナンセンスなのかもしれないけれど。

「520円になります。」

「……、あ、すみません。224番ももらってもいいですか。」

はじめから二つ頼めばよかったと後悔し一瞬逡巡したが、追加でCAMELの青箱も頼む。案の定、面倒臭そうな顔をされた。こいつ、帰り道に鳥の糞でも頭に引っ掛けられないかなと思った。

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