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脳梗塞を乗り越えた先に〜介護と闘病〜

これはあるひとつの事例です。
でも、少なからず似たようなケースはあると思います。
親の病気、介護はいまや当たり前なので。

言えることは、人の運命はどうなるかわからないということです。
突然、親が病で倒れたら。
その運命の一例をこれから紹介します。

ある年の4月1日早朝父から突然電話があり、昨夜母が救急車で病院に運ばれたと連絡を受けました。
父は徹夜で見守っており、一回目の電話は簡単な報告で終わりました。エイプリルフールとはいえ、こんな報告とは…

土曜で休み、本来病院に駆けつけるはずでした。しかし、翌日曜は私と家内はどうしても外せない用事があり駆けつけることができず、間を置いて父に電話して追加情報を確認しました。

経緯は以下の通りでした。

・母はパチンコに行ったあと、夕方父、弟と食事に行きました。
・席に着いてから、母の言動がおかしいと父が気づきました。
・母は文言がはっきりせず、口元から唾液が垂れて倒れ込んだため、救急車を呼んで近くの脳神経外科病院に連れて行きました。
・当直が院長だったためすぐ心因性の脳梗塞と判断され、血栓溶解剤アルテプラーゼを投薬されて様子見となりました。
・血栓が全て溶ける期待があったものの、完全には溶けきらない結果となりました。
・血栓で詰まった左脳の組織が一部死滅したため、一生車椅子生活も覚悟しなければならないと院長から聞かされました。
・原因は、心房細動という心臓の心室内での微細な動きから発生した血栓が血流に乗って脳に至ったということでした。

日曜用事を済ませた後、病院先の岐阜まで車を走らせました。高速道路を使っても4時間以上はかかります。父の報告では、ひとまず命は助かったものの、集中治療室内にて予断を許さない状態でした。
早く向かいたい気持ちと焦ってはいけないという気持ちが交錯し、表現しがたい胸中で高速道路を走りました。

夕刻過ぎ、浜松を過ぎた付近では暗い雲の中に明るい日差しが見えてきました。一筋の光と思わざるを得ない感覚を感じたことを思い出します。病院には薄暗くなった19時に到着しました。

入口に迎えにきてくれた弟とともに、母の横たわる集中治療室に行きました。部屋に入ると、沢山の管に繋がれた母がいました。心電図を含め様々なデジタル波形や数値を表示する機器があり、それぞれ無機質に変化していました。
集中治療室、ICUという呼び名で知っていましたが、実際に入ったのは今回初めてでした。ICUの中は暗く、重苦しい雰囲気だったことを今でも思い出します。

当時を振り返ると、ICU内で何を父と話をしたかは覚えていません。この先のことなど考えられず、事実を受け止めるしかありませんでした。

この年の4月初めは桜が満開でした。病院からの道中は、車窓を通して夜桜が綺麗に映っていました。
私たちは夜桜を見つつ、心が沈んだ状態で実家に向かったことを記憶に残っています。
今までお酒を飲みながら夜桜を見て風情を楽しみましたが、シーンと静まりかえった車内で見る窓越しの夜桜は、心の状態と同調しているのか、ひっそり佇んだように見えておりました。

次の日の朝。
昨夜から母の容態は一向に変わらず、会話もできないため長居する意味がなく、早めに病院を後にしました。
当面母の入院が続くこと、退院後も通常の生活ができない見通しのため、父と弟が生活するための段取りを家内と考えました。
私たち夫婦は関東に在住しているため、頻繁に岐阜まで行くことができません。そのため、母の容態を家族で共有する方法、そして父と弟という男世帯だけで生活を進めるにあたって食事面や経済面の要点を整理しました。

内容としては以下となります。

・父と弟にて日々母の状態を記録し、容態の変化を家族全員で共有できる形にしました。
・食事の一切を母に依存していたため、家内が父と弟に米の炊き方含めた食事の調理方法を教えることにより食生活を安定させるようにしました。
・生活費の整理と入院費用の算定、年金含めた収入と県民共済での医療給付金を明確にすることにより金銭面での不安が起きないようにしました。

以上を3冊のノートに「病状編」「食事編」「金銭編」と分けて記載するようにしました。

関東へ戻ってから、毎日21時に父へ連絡を取り、母の状態を確認しました。父と弟の生活は一変しましたが、私たち夫婦の生活も変化しました。週末は遊ぶ気持ちにはなれません。毎週末帰省して様子を見ようと思っても、当時リモートワークが一般化しておらず、時間面と費用面からも無理でした。

都会で仕事をしている人達は核家族が多いと思うので、遠方の実家の親が倒れた場合、近くに安心して任せられる身内がいる場合を除き、私たちと同様の経験をすることになると思います。私たちは車で帰省できる距離でしたが、実家が遠方の場合、親が倒れた際の段取りを事前に考えておくことをお勧めします。

離れて何ができるのだろうかと考え、祈ることしかできない、に至りました。
この頃、お世話になっている方からメールがあり、母の状況を伝えました。すると、浅草にある待乳山聖天(まつちやましょうでん)で祈祷を受けるといいとアドバイスがありました。
この方は神社仏閣に対して造詣が深いため、早速次の週末に行きました。

過去浅草では雷門から出店を通り浅草寺に参拝したり、電気ブランで有名な神谷バーにも入りましたが、待乳山聖天は初めて聞きました。

http://www.matsuchiyama.jp/

浅草から大通りを隅田川に沿って北に歩いて10分程度、左手にある門を通りました。この日の都内は小雨模様で隅田川も濁り、東京スカイツリーの上半分は霧がかかって見えませんでした。
このお寺では、珍しく大根を御供物として扱っておりました。参道の脇では、大根をたくさん目にすることができます。有名なのは祈祷ですが、その名も浴油(よくゆ)祈祷という変わった名称でした。

母の命は助かりましたが、脳外科の院長からは一生車椅子、または蟹のような歩き方しかできないことを覚悟するように言われていました。そこで、せめて日常生活が出来るまでに回復することを祈願しました。
約一週間後にお札かお守りのどちらか選択した形で郵送されるとのことなので、お守りの形でお願いしました。

祈祷後に正殿参拝した後、大通りではなく隅田川の川岸沿いを歩いて駅まで向かいました。この時期の関東は遅れての桜の開花だったので、川沿いの桜をたくさん見ることができたからです。
帰りは雨も止んでいましたが、路面が濡れているにも関わらず宴会している人達が多かったのが印象的で、世間は平和だなあと思いました。自分が暗い立場では、明るい人たちを見ると複雑な心境になります。

ICUに入っていた母は、病状が落ち着いたこともあり通常の病室に移されたと父から聞きました。
祈祷いただいたお守りを受け取った後、再び岐阜へ向かいました。

母が倒れて2週間が経過し、早くも介助を受けて食事と歩行ができていました。
人間の身体は動かさないと筋肉が硬直するため、1週間寝たきりだった母はICUを出てからは早速リハビリに入ったとのことです。
看護師や理学療法士から厳しく指導されて。

病院で寝たきり状態は、レアケースのようです。母が入院した病院では、リハビリだけの患者は最長3カ月しか入院を認めず、早々に自宅介護か施設入所かを迫られます。先が見えない状態にも関わらず、病院は薬投与や手術といった形で金にならない患者を早々に追い出すようです。
やるせない気持ちを今でも思い出します。

何かできないかと、脳梗塞の関連本を図書館から借りたり、リハビリの最新情報に関する書籍を買ったり、ネットでも調べまくりました。
母を少しでも健康な体に近づけたい一心でした。しかし、医者でない素人がいくら本で勉強しても何にもできません。でも、何かせずにはいられない状態でした。
家内の母が肺がんになった際、当時最新のワクチンの治験に参加したり、小脳に転移した際に当時自己負担額が高額なガンマナイフを試したりした行為が身に染みてわかりました。

相手の立場に立って物事を考えようにも、理屈では理解しても実際に自分がその立場にならない限り、感情を移入させることはできません。経験というものは、当事者になって本当の意味で自覚するものであると。
そして理解と自覚は違うということも。

脳梗塞とは、脳の血管内に血の塊りである血栓が大きくなって血管を詰まらせ、血が届かない細胞が機能しなくなる(=細胞が死滅する)状態です。
尚、脳梗塞には3種類あります。

ラクナ梗塞
脳を養う太い血管から分岐する細い血管(0.9mm以下)の血管壁が高血圧によって厚くなったり、壊死を起こすことで、血管の内腔が狭くなり、そこに血の固まりが詰まります。

アテローム血栓性脳梗塞
脳を養う太い血管の根元が動脈硬化や血液中のコレステロールが溜まることで狭くなり、そこに血の固まりができ、詰まります。

心原性脳塞栓症
心房細動などの心臓病により心臓で作られた血の固まりが流れてきて、詰まります。

ラクナ梗塞では、血管も細いため症状は軽く、リハビリで社会復帰も普通に実現するようです。しかし、母の場合は心原性脳塞栓症です。心臓で発生した血栓は脳内でできる血栓より大きいため致命傷になるケースもあり、仮に命が助かっても五体満足に戻るケースは少ないらしいです。


リハビリは日々進歩しています。子供の頃、転落による右上腕骨顆上(かじょう)骨折、それも折れた骨が皮膚を突き破っており、1ヶ月の入院と3ヶ月のリハビリを経験しました。当時PT、OT、STという用語は聞くことはなかったのですが、この時は病院内で普通に使われていました。

PT(理学療法士)について
“Physical Therapist”、略してPTとも呼ばれる「理学療法士」とは、身体などに障害を抱えた方に、座る・立つ・歩くといった基本的な動作能力の回復・維持の為に、治療体操や電気療法を用いて、自立した日常生活を支援する医学的なリハビリテーションの専門職です。

OT(作業療法士)について
“Occupational Therapist”、略してOTとも呼ばれる「作業療法士」とは、食事や着替え、家事や仕事といった日常生活に関わるすべての諸活動において、様々な方法でサポートしていく専門職です。

ST(言語聴覚士)について
“Speech Therapist”、略してSTとも呼ばれる「言語聴覚士」とは、先天的または後天的な原因のため、言語機能や聴覚機能に障がいを抱える方を対象に、機能維持や向上を目的としたリハビリテーションを行う、「言語聴覚士法」に基づく国家資格です。また、摂食や嚥下障害の問題にも対応します。

母の場合、PTにて歩行を軸としたリハビリを実施し、目標としては杖付きで歩けることを目指しました。しかし通常の1点杖では無理があり、4つの支点で安定した4点杖で歩けることを目標に日曜を除く毎日をリハビリに費やしました。
右脳の損傷で左手が自由に動かせないため左腕を包帯で固定し、腰から下の足の身体能力を取り戻すことを主体としました。
OTは母をベットで横にさせて腕の上下運動を中心に動かし、STは顔面麻痺からの回復として言葉の発声練習とパズルなどを用いた認知能力の向上を進めました。

リハビリを進めるごとに母は少しずつ良い状態に進んでいくように見えましたが、1ヶ月ほど経ってからは回復スピードも遅くなってきました。母のリハビリを見届けた後、私たちはよく病院近くの和食屋で昼食を取りました。そこで母よりも年配の老人が杖で歩けるのを見ると、母もそこまで回復してもらいたいなあと願っていました。

5月の連休に続いて、その次の週末も見舞いに行きました。
これが母の日での最後の対面でした。

この後は、内々のプライベート情報もあるため有料化させていただきます。
興味があるかただけに、ここから先は開放します。

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