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    楽園の暇 ― もんたん亭日乗


<その3>  浄瑠璃が、離れ小島にやってきた


 文楽の神様が微笑んで、瀬戸内の小島で奇跡が起きた、十二年間にわたって。この時の厳しい暑さを思い起こしながら、最も酷暑の夏に私はそう感じている。丸亀市沖の離島・広島に「もんたん亭浄瑠璃」が生まれた、その経緯はこうである。
 私の人生において出会えて本当によかったと思えるものの一つに、「文楽」=人形浄瑠璃がある。無形文化遺産にも認定されているその伝統芸能にどっぷり浸かって、三十年以上になる。以前勤めていた東京の放送局で文楽公演を企画したのが縁で、出演者の豊竹英太夫とよたけはなふさだゆう(当時)師との、わが両親も含めての和やかな交流が生まれた。東京公演の度に両親は四国・丸亀から観劇に来ては、共に一献傾ける。その時も国立劇場公演の終演後だった。

はなふささん(当時、気軽にそう呼んでいた)、故郷の島に別荘を建ててまして、この夏に完成するんですよ。また遊びに来てくださいね」
 何の気なしに私は誘った。師はその時、間髪入れず、
「ええですなあ。ほな、柿落こけらおとしになんかやりまひょか?」
 と言って、すぐに手帳を取り出し、
「あ、8月22日が空いてますわ。この日にしまひょ。三味線は(竹澤たけざわ團吾だんごくんに頼みますわ」
 とすぐに予定を書き入れてしまったのである。こちらはあまりの展開に目を丸くしたが、断る理由などあろうはずがない。

 故郷の島は広島(あのヒロシマではない)と言う。昭和の初め、良質の花崗岩を産出するこの島に、大阪から祖父が移住してきて石材業を始めた。二代目の父は高度成長の波に乗って大儲けしたものの、石油ショックであえなく倒産。家族で丸亀市内に居を移していたが、いつからか私に、かつて家のあった場所に別荘を建てる、という夢が生まれた。子供時代の懐かしい記憶が残る場所で、夏だけでも家族や親しい人たちと過ごせたらいいな、という思いからだった。吹き抜けの広間に二階もついた小さなバンガローにすぎないが、2007年、その夢が叶った。それどころか、その柿落としに、文楽の本場大阪から、現役の太夫・三味線弾きがわざわざ来て演奏してくれる、というまさかのプレゼント付きで。叶った夢がにわかに百倍くらいに膨らんだ。
 バンガローの名前はもう決めていた。「戻った」を意味する島の方言である「もんたん」からとって、「もんたん亭」。私は「亭主」を名乗った。
 公演名もすぐに決まった。「もんたん亭浄瑠璃」である。

「もんたん亭」(丸亀市広島町青木)

 2007年8月22日。その日はやってきた。
 もしかしたら私以上に待ちこがれていたのが父である。自身もここで成長した島に、お気に入りの英太夫一行がやってくるのだ。長い付き合いの友人たちを誘った。母も大張り切りで、一行の宿泊、食事計画に余念がない。演者と東京からの文楽仲間には前日から入ってもらって、前夜祭だ。
 昔は石で栄えた島だが、今は喧騒とは無縁。海岸を思い思いに散策したり、真夏の太陽に温められた瀬戸内の海で泳いだり。島の稜線に沈む夕陽は全員で見に行った。そして空が暗くなると小さい星屑まで見える満点の空を眺めた。入門して三年、一人で語ることもほとんどなかった弟子の希太夫のぞみだゆうさんが、師匠に言われて普段着のまま語ってくれた浄瑠璃を嬉しく聞いた。酒宴のあとは、男女が一階と二階に分かれて就寝。無形文化遺産の大切な担い手というのに、師匠も弟子も客も一緒に、バンガローの硬い床に雑魚寝させるという手荒いもてなしで、本番の朝を迎えた。
 その日最初の仕事は、太夫と三味線が乗る「ゆか」と呼ばれる小さな舞台を作ることである。この企画に喜んで乗ってきた、私を赤ん坊の頃から知る近所のおばちゃんが、スチールの頑丈なテーブルと緋毛氈ひもうせんを探して持ってきてくれた。演者も客も協力しあって、十二畳ほどのリビングダイニングに急拵えの床を設置した。

手作りの「床」(載っているのは「見台(けんだい)」)

 
 昼過ぎに丸亀からの船が着いて「日帰り客」がまず到着。声掛けした島のお年寄りたちも、三三五五やってくる。その頃、演者は楽屋にしつらえた二階で稽古中である。入ってくる客は次々に吹き抜けの天井を仰ぎ、そこから降ってくる三味線の音色とそれに合わせる太夫の声を浴びる。楽屋の稽古の音が上演前の観客席に漏れているような状況だ。いつの間にか島のバンガローは小さな劇場になっていた。私は冷蔵庫前の、国立劇場なら浄瑠璃好きが好むような場所を、亭主特権であらかじめ押さえていた。客入れが終わると、私はうっとりとして冷蔵庫に体を預ける。
 午後二時、開演。
 三味線弾き、続いて太夫が厳かに二階から降りてきて、みんなで製作した床へ。劇場の舞台そのままに、弟子による口上が高らかに述べられる。外には八月の太陽が照りつけ、蝉時雨がこれでもかと降り注ぐ中、「もんたん亭浄瑠璃」が幕を上げた。柿落とし公演は、「ととさんの名は十郎兵衛じゅうろべえ、かかさんはお弓と申します」という名台詞で名高い『傾城阿波けいせいあわの鳴門・巡礼歌の段』。
 最前列のど真ん中には、父と小学校の同級生だというおばあちゃんが鎮座し、その目は舞台上の太夫に釘付けにされている。悲劇へと続く展開を知っている亭主の鼻の奥はすでにむずむずして、泣く準備が整っている。

豊竹英太夫(現・豊竹若太夫)
第1回もんたん亭浄瑠璃 演目「傾城阿波の鳴門・巡礼歌の段」
太夫・豊竹英太夫   三味線・竹澤團吾

 劇場に入った途端、程度の差はあれ、私たちは世間から隔絶された芝居空間に放り込まれるものだ。芝居を待つ喜びと、劇場の持つ空気に心が惑わされるからだ。しかしここはその感覚と違う。こんなにも生活感のある空間なのに、その狭さ、舞台との近さが、格別なのだ。だから耳が、目が、いつもと違うものを捉える。我が耳は、太夫の繊細な息遣いまではっきりと聞く。三味線の糸が、三味線弾きの糸道いとみち(爪の先にできた溝)を擦る音までも耳が捉えた気がする。彼らの額を流れる汗の筋を、自分の心に流れこむ涙のように感じる。これまでにない空気が、小さなバンガローに一気に満ちる。たった二十人ほどの「特定少数」に向けて、三味線のひとばちが、放たれることばが、そこだけに満ちた空気に触れて、体にすっと入ってくる。
 哀しい物語だ。別れた両親に会うため阿波から一人旅をしてきた幼子は、偶然会った実の母に、母とも知らず甘える。名乗れぬ母。辛い別れ。この後に、思いもよらぬ悲劇が待ち受けることも知らぬふたり……。
 三味線の音が途絶える。床の二人が頭を下げる。小さな劇場を万雷の拍手が包む。芝居が閉じた途端、耳に復活する蝉時雨。真夏の白昼夢を見ていたのかと思わされた。
 浄瑠璃を至近距離で浴びる至福に心底酔っていた。公演はこの時から毎夏行われ、2018年、その歴史を閉じた。

 初回以来何度か通ってくれた父の友人が、「涼み浄瑠璃」という俳句の季語があることを教えてくれた。浄瑠璃好きの多い大阪で、同好者が集まって貸席を借り、互いの芸を聴かせあって暑さを凌ぐという市井の夏の風習、と歳時記にある。もうとっくに消失した風習と思ったら、まさにこれのことかと感激したという。しかも、旦那衆の素人芸ではなく、本場の浄瑠璃語りによる至芸なのだから。
 これはもう奇跡と呼んでいいんじゃないだろうか。

 英太夫はのちに豊竹呂太夫ろだゆうを襲名、そして2024年春、さらに大きな名跡、豊竹若太夫わかたゆうを襲名した。祖父が、江戸時代に豊竹座を起こした若太夫を継いだ十代目にして、人間国宝。その十一代目を継いだのである(まあ、よくもそんな人を、十二年も硬い床へ寝かしたもんだわ、である)。襲名披露パーティーで、これまでの足跡をスライドで振り返るコーナーがあり、師の人生を彩る数々のシーンに混じって「もんたん亭」でのひとときが映し出されたのに驚いた。のちに感謝を述べたら、「僕の人生からもんたん亭を外すわけにはいきませんから」との言葉に胸が詰まった。そしてあの空間はやっぱり、文楽の神様が起こした奇跡だったに違いない、と確信する亭主なのだった。
 またいつの日か「もんたん亭浄瑠璃」が島に「もんて」来ることを願っている。

*不定期(たぶん月1)掲載です。
*注 「たゆう」の表記は、昭和28、9年ごろから平成28年3月までは、「大夫」でしたが、ここでは「太夫」に統一しています。



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