障がいって言われたくない
こんばんは、Heartect Wingsの疾風 遥です☆彡
最近、調子が良く、暑いながらも、楽しく過ごしています♪
このところ、人とお話しする機会を存分に頂き、いつも以上に色々な考えを巡らせている今日このごろです。
さて、今日のお題は「精神障害とか、発達障害とか」です。
この記事をお読みの方は、少なくともそういう障がいに興味(悪い意味ではなく)を持っている方なのかな、と推察します。
私は、パニック障害、うつ病ですので、「精神障害」にあたります。
父母や、叔父たちを見るに、診断こそ下りてはいないものの、「発達障害」の若干の気質は持っていそうな自覚があります。
とはいえ、パニック障害を発症するまでは、いわゆる”健常者”として生きてきました。
不登校なりはあったものの、身体的精神的な発育も診断が下るほどの遅さではありませんでしたし、実際に生活をする上で困るようなことは、スーパーの上の棚が取れない、くらいの安易なものでした。(低身長なんでね)
それこそ、低体重児で生まれ、病弱だった私を、父母は特別視することなく、”普通の子”として育ててくれたわけです。
そこに、価値があると思います。
仮にですが、私が幼少期に「発育が遅れていますね」と言われ、両親が「あぁ、そうですか」と受け入れていたならば、私は通常学級で勉強し、友人関係に悩み、親に反抗し、社会に不満を述べつつも、それなりの成績を収め、大学に進学し、新卒で採用される、といった”ごく普通の”生活はできなかったんじゃないか、と思います。
もちろん、それらの過程で、「周りよりできない自分」を卑下するときもありましたし、悔しい気持ちもありました。
しかし、全てにおいて劣っていたわけではなく、少なくはありますが、得意なこともあるわけです。
しかしながら、これが幼少期に診断が下っていたならば、恐らく私には社会から発育の環境すら周りの子と同等のものは受けれなかったのではないかな、と感じています。
ただ現在、私は満を持して「障がい者」になったわけで、早かれ遅かれこういう壁にぶつかる運命だったのかもしれません。
でも、今まで”健常者”として頑張ってきた私と、”障がい者”と名のついた私は、一切変わりません。
喜怒哀楽があり、それが上手く表現できないときに発作が起きる、ただそれだけのことです。
しかし、”健常者”からは、「あいつは精神障害だからな」という括りで見られるのでしょう。
今まで、一生懸命に”健常者”ぶっていた私からすれば、やっとムリなく”障がい者”を名乗ることができて、そういった一部の無神経な”健常者”に合わせずに済むことは、むしろ気が楽なくらいです。(はい、嫌みです笑)
でも、きっとそう思えるのは、私が”健常者”を体験できたからこそ。
ということは逆に捉えれば、幼少期や児童期に「発達障害」と診断されて、いわゆる一般社会とは異なる教育や療育を受けてきた方の中には、私のような人も少なからずいるのではないか?、とも思うわけです。
そもそも、「障がい者」なんていうものは、現代社会が作り上げた効率的なルールにハマれない「個性豊かな人たち」であって、あくまでも「個人の特性」だと私は思います。
それこそ、私は文章にすることは得意でも、話すことはできても、少しでも高圧的な態度を取られれば一気に委縮してしまいます。(誰しもそうだ、と言われればそれまでですが…)
まぁ、「障がい者」として社会から守られているのだから文句を言うな、と言われてしまえば、なかなか反論も難しいところではありますが、そういう真面目な方(社会常識を重んじる方)は、私からすると、むしろそれに縛られて苦しいようにも見えます。
国籍や性別、それこそLGBTIなどで区別することが「そういうのは良くないよ」ってなってきているからこそ、次は「障がい者」にもそういった眼差しで、1人1人の「個性」として、上手く付き合ってくれる社会であって欲しいな、と思います。
(私が少し学術的な本を読んだことで、かたい文章になりましたね…)
最後に言っておきたいことは、「最近、発達障害や精神障害って増えたよね」ではなく、「今まで声を上げることすら許されなかった人たち」または「以前は少し変わっていても、あういう奴だからな。で済まされていた人たち」が、「障がい者」という形で、可視化されるようになっただけ、というのが私の持論であります。(あります。です。)
マジョリティも生きにくければ、
マイノリティも生きにくい。
はて、この世はいったいどうなっていくのでしょうね…。
調子の良い、疾風 遥でした笑
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