「守られていい存在である」という免罪符がほしいわたしたち

 単刀直入に言うとHSPを自称する風潮が苦手だったのですが、
そうやって自分自身にマイナーな肩書をつけることで、「自分は弱くて生きづらいから守ってもらっていい存在である」という免罪符が欲しいのかなぁと思うと、
確かに生きるのって大変だしそういう気持ちもちょっとわかるなぁ、と思います。

 他にも、発達障害と診断されたい人、細かいLGBTその他諸々の分類もあるけれど、みんなどうしてそんなに分類とか肩書がほしいんでしょうか。

 だって、そういう分類って他人の目がある場面以外では意味じゃないですか。

 仮に自分が特殊な人間だったとしても、それは世間と比べて特殊であるというだけで、自分ひとりの精神世界や個人的な生活の中では自分の感じ方こそがスタンダードです。自分こそ王道。自分の感じ方こそ正統派。
 自分が他の人と違っているとしても、自分ひとりの世界に他人は存在しないので関係ないじゃないですか。


 だから、「世間のスタンダードと比べて自分がいかにずれているか」を表す肩書にアイデンティティを求めなくてもいいと思うのだけど。

 世間と比べてずれていようと心が弱かろうとなんであろうと、「わたし」という自我があるかぎりわたしは生き続けないといけないのだから。

 でも、自分ひとりの精神世界をみんながみんな重要視してるわけではないから、人からどう評価されるかに主軸をおいている人にとっては肩書も必要なのかもしれない。


 ただ個人的には、
 「わたし」という自我があるかぎりわたしは生き続けないといけないのだから、世間に適合してようといまいちずれていようと心が弱かろうと強かろうと、そんなことは関係なく甘えたり守られたりしていいんじゃないかしら、と思って生きてます。

 心が繊細で弱くても誰かが自分の人生の痛みを代わりに引き受けてくれるわけじゃないし、
ひとりで楽しく生きていけるくらい強くても、誰かから愛される・守られる権利は誰もが当たり前に持っているのだから。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!