幸せも生きる意味も、自ら見出していける ヴィクトール・フランクル「夜と霧」を読んで

 今年のGWは猫のかわいさゆえに読書が捗らなかったのですが、そんな中でも半分読んだ「夜と霧」を先程読み終えました。

 いつか読みたいなーと思いつつきっかけがなかったのですが、実家でたまたま姉が買っていたおかげで手に取ることができました。その後自分でも買いました!
 内容は勿論のこと、あまり厚くなく文章もわかりやすいので、「いつか」と変にハードルを設けずもっと早く読んでみればよかったと思います。


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 ヴィクトール・フランクル、ホロコースト生存者という認識でしたがまさにアウシュビッツに収容されていたのですね。

 フランクルは精神科医なので、そういった専門性が認められて収容所でも多少特別な待遇を受けられていたのかと少し思っていたのですが、とてもそんなことは無かった。その人の名前や人間性が奪われる収容所の中で、119104番として強制労働に従事していたのですね。


 同じくアウシュビッツ強制収容所の生還者であるプリーモ・レーヴィの「これが人間か」という著書があるけど、夜と霧の前半もまさにそんな内容だった。

 収容者は積荷のように貨車にすし詰めにされ、備品も食事も不十分、不衛生な環境、看守からの理不尽な暴力、そして無価値と判断されたものはガス室へ送られる…。

 そもそも彼らはなぜ収容される必要があったのか。一体どんな大義名分で強制労働に従事させたのか。
 本当にこれが人間に対する扱いなの?というのが一番の感想でした。

 フランクルは精神科医であったために肉体労働徐々に医師としての仕事にシフトしていったようなので、さっきとは矛盾しますがやはり精神科医であったことが生存に影響していたのではないかと思います。
 とはいえやはり、あの環境を生き延びるのはほとんど奇跡のようなものだったのですね。



 また収容者の中でもカポーと呼ばれる収容者を束ねる役割の人がおり、ある意味看守以上に残虐であったとのこと。(ドイツ人の犯罪者として収容されていた人が主だったようです)
 意外でしたが、どんな環境においても社会階級のようなものはできるんですね。カポーになったものは収容所にも関わらず人生で一番いい目を見ていたというのも皮肉です。

 また生き延びた被収容者の中でも「あれだけ痛めつけられたのだから次は自分の番だ」と言わんばかりに傲慢になっていく仲間もいたとのこと。

 つい「被収容者=可哀想=善人」という単純な考えに陥りやすいけれど、巻き込まれた状況とその人の人格はなんら関係はないわけで…。


 翻って言うと、どのような不運に巻き込まれたとしても、自分がどのような人間でありたいかは自分で選べるということ。その環境のなかでの幸運やユーモアを見出していけるということ。

 幸せも生きる意味も、与えられるものではなく自ら見出していくものなのだと。



 文章が変に感動を煽るものではなくとにかくフラットで分かりやすいので、フランクルとしては本当に収容所での経験を精神科医としての視点から分析するための文章だったのかなと思います。
 これをきっかけにプリーモ・レーヴィの「これが人間か」も読んでみたいです。またフランクルの著書であれば「それでも人生にイエスと言う」これも読みたいです。もうタイトルから詩になっている。

 それから、今世界で起こっている紛争や対立、かつてあった戦争についてもっと勉強したいと思いました。
 どうしてこんなことが起こったのか、その時人間は何を考えていたのか、その過去を経た地点にいるわたしたちはどうやって生きていけばいいのか。夜と霧を手に取ったこのタイミングで考えていこうと思う。

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