抽象的なのみこめなさ

 錠剤が飲み込めない子供でした。

 食事の時は普通に咀嚼して飲み込めているのに、
 小さくて硬い玉を噛まずに飲み込むこと、水と同時に飲み込むことがどうしてもできない。
 子供時代のことみたいに書いてるけど、大人になった今も普通に苦手です。

 なんとなく、自分の体は、喉の通り道が小さくて狭いような、飲み込む力が弱いようなイメージ。



 物理的に錠剤が飲み込めないみたいに、

新しい環境も飲み込めないし、人の説明もなかなか飲み込めない(というか、まずおかしい飲み込み方をして一回吐き出す)し、人の心も、その人が言葉を使って伝えようとしているニュアンスも、ほんとうに飲み込むのに時間がかかるしとっても大変。
 やっぱり自分の心にあるなにかの通り道が狭くて、なかなか吸収できない感覚がある。



 人の持つ意図を飲み込めない。

 言葉は単なる手段だから、言葉を理解するんじゃなくて、言葉を利用して伝えようとしている意図を理解したいんだけど、

 言葉の表面だけさらって消化した気になってしまって、
あとになって「あの言葉ってこの場面でも適用されるんだ」「あのたった一言の言葉にこんなに重いニュアンスが詰め込まれてたんだ」と気づくことが多くて、
相手の意図と自分の理解が全く平行な平面で交差していて交わっていないことに気づく。気づくと反省する。

 気づいてもう一度飲み込もうとすると、相手の持つニュアンスの形、彫り、曲線、奥行、立体感、手触り、感触、味、…いろんな情報が少しずつ立体的に頭の中に広がってきて、心に馴染んできて、そこでようやく一歩消化が進む。


 相手の持つニュアンスを飲み込んで消化することは、それなりに時間がかかって、一生懸命努力すればすぐ飲み込めるものでもなくて、
飲み込もうとすることをいったん忘れたときにするっと体の中に入っていったりする。
 半年くらいたった時に唐突にニュアンスに触れてその手触りを確認できたりする。

 あれこれ試行錯誤して半年がかりで消化するニュアンスがあるのなら、会話のキャッチボールをしながら数秒で消化できるニュアンスもこの世に存在するのだと信じたい。

 そんな風にニュアンスの消化に苦労しない世界で暮らすことが、自分に得意なことを生かせる世界で生きるってことなんじゃないかと思ったりする。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!