2023年6月18日(日) 自分の姿は見えない、誰かの為になにかしたい

 2020年11月~2021年11月まで毎日更新していたこの日記も最近は週末日記になりつつある。
 それでもいい。その時のライフスタイルに合わせて無理なく続けられるのが一番いいなぁと思う。ほんとはもっと更新したいけど日記以外にやらないといけないこともあるから仕方ないね。


 今日は日傘をさして仁和寺~龍安寺~金閣寺の世界遺産はしごをしてきた。帰りに平野神社にも寄った。
 御朱印も沢山もらってきた。


 最近の週末は御朱印集めのことを考えている。
 わたしは前から寺社仏閣によく足を運んでいたのだけれど、御朱印集めを始めたことでまた新鮮な気持ちで訪れることができて楽しいです。
 次は東山に行きたいです。

 こんなに御朱印集めのことを考えているのだから、わたしはきっと出かけたり寺社仏閣を参拝したりすることが好きなんだろうなと思う。あと歩くことも。今日は17000歩を超えた。

 一方で、わたしはどうしてこんなことをしているんだろうとも思う。
 導かれるように吸い寄せられるように寺社仏閣へ足を運ぶけど、そこでわたしは何をしているのかがいつも曖昧だ。なんとなく歩いてなんとなくいい感じの写真を撮っている。

 わたしは、「わたし」が何を好きなのか、どんな人間なのか、何が「わたし」を構成しているのか、大事なことを何も知らない気がしてならない。

 わたしは「わたし」が存在しないと成立しない人生を生きているのに、肝心の「わたし」の姿をわたしは見ることができない。下を向けば脚くらいは見えるかもしれないけれど。
 「わたし」が始めた物語のはずなのに「わたし」の輪郭も中身も曖昧でつかみどころがなくて、わたしは「わたし」が何者かわからないでいる。
 だから、「わたし」なんて実は存在しないんじゃないか、あるいは、「わたし」なんていなくていいんじゃないかといった感情を抱くこともある。

 「わたし」のことを何にも分かっていないのって、なんだか嫌なような気もするし、「わたし」なんて実は存在していないんじゃないかという気もする。

 「わたし」を作るもの、「わたし」を支えるもの、ってなんだろうか。

 最近のわたしは、「わたし」を構成するもの、「わたし」を支えるものさえ分かればすべての悩みが解決するといった幻想にとらわれているようにも思える。
 そんなわけはない。1つ悩みが解消したらまた新しい不安や悩みの種を育て始めるに決まっている。わたしってそんな人間性だから。
 



 金閣寺をバックに自分の写真を撮ってみた。
 観光地でひとり自撮りしているわたしの姿が客観的に見ておもしろかった。

 いつかプロのイラストレーターさんに自分の似顔絵を描いてほしくて、外出した時たまに思い出したように自撮りをするんだけど、自撮りって自分の顔が見られるから面白い。
 さっきの話の続きだけど、自分で自分の顔を見られるのって、つかみどころのない「わたし」への「『わたし』とは何者か」、という問いの1つの答えの形のような気がするから。



 そして鐘をついてきた。
 なんでも、「その鐘の音を聴く者は一切の苦から逃れ悟りに至る」…みたいないわれがあるらしくて、それならみんなのためにわたしが鳴らそうと思ったんです。

 わたしの行動が、顔も知らない誰かのためになっていたら嬉しいなと思って。
 普段孤独な生活をしているから、誰かの為になにかできる機会があったら積極的にやっていきたいんです。

 鐘楼の管理の係とおぼしきおじさまに「おー、いい音」と褒められたのが嬉しかった。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!