2022年8月31日(水) 頑張れないかもしれない
数年前から「頑張れないかもしれない」という感覚が出てきた。
ちょうどnoteを書き始めたあたりの時期からです。
この感覚人に言ってもあんまり理解されないんですよね。
えなんで?自分が頑張るだけでしょ?頑張れない”かも”っていう不確かさは何よ?みたいな。
明日頑張れば終わる、頑張らないと終わらない、頑張れないかもしれない、…。
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わたしの中には「頑張らないといけない」という超自我と「もう頑張りたくない」というイドという相反する2つが内包されています。
最初は「頑張らないといけない」って強く思っていました。
だんだんその義務感に疲れてきて、「頑張らないといけないんだけど、本当はもう頑張りたくない、でもやっぱり頑張らないといけない」に変わってきましてね。
頑張れない自分は受け入れられないという自己否定や終わりの見えない頑張りにこころがすり減っていって、大人になるほどにこの「もう頑張りたくない」の声が大きくなってきていて。
そして今は「早く楽になりたい、けど頑張らないといけない、けどもう頑張りたくないし本当に頑張れないかもしれない」になった。
それを思うと、「頑張れないかもしれない」を翻訳すると「頑張らないといけないんだけど、もう頑張りたくないくらい心がフラフラしてて、頑張ろうという意思に反して身体が動かなくなって、もう頑張れなくなってしまうかもしれない」にいう感じなのです。
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いつからか毎日が綱渡りみたいなのです。
当たり前に頑張れていたころは、急な坂道も階段もなんでも歩いて行けたのに。
「頑張れないかもしれない」日々は綱渡りで、偶然たまたま運よく”頑張る”ことができていれば綱の上にいられるし前に歩いて行けるけれど、
頑張るべきタイミングを逃し、頑張るべき時に体はくたくたで指一本動かせなくなって、疲労感が連れてきた暴力的な眠気に圧倒されて、要は「頑張りたいし頑張ったけどその頑張りが認められなかった」という事態が起きるとあっという間に綱の上でバランスを崩してもう助からない。
わたしのいのちを支える安全ロープのない綱渡り。
頑張らないといけないけれど、頑張れないかもしれないから、心臓をぎゅっと掴まれるくらいつらいので、いっそころしてくれ!
今までころされずに生きていられてれるし、頑張りつつ疲れすぎないようにするバランス感覚を偶然習得することができれば、うまいところ綱を渡っていくことができるようになるかもしれないけど、一寸先は綱から落下しているかもしれないし、むしろ心臓に悪いからもう落ちてしまいたいと思いながら昨日も今日も多分明日も生きる予定だよ。
ここまで読んでくれたあなたがだいすき!