誰かの辛さを実感をもってわかってあげられなくても

 以前の記事

 自分自身が生きづらさを抱えているから,誰かの悩みや苦しみも分かってあげられると思ってたけれど,生きづらさの起因が自分と違う人の苦しみを理解できるわけがないよなと思った.今までうぬぼれていた.

と書いていた続きです.


 例えば,右利きの人は,左利きの人が文字を書いたり急須を使ったり習字をしたりする時の,生きてはいけるんだけどいちいち手間がかかる不便さ,生まれた時からずっと軽くて邪魔な足枷をはめられているような感覚を理解できないし,

 聴力に問題の無い人は,一見普通に会話できてしまう片耳難聴者の音の方向が分からない苦労を理解できないし,

 そもそも子供がほしくないと思っている人は,不妊治療している人の子供が出来ない悩みに共感できないんじゃないかなと思う.

 実家で炊事洗濯をしてくれる人がいる環境にいる人は,床に自分の髪の毛が落ちてるワンルームの1室で半額のお弁当を食べる気持ちを実感をもって理解することもないと思う.


 途中脱線したけれど.
 自分が実際に当事者にならないと,その人の世界の見え方や生きづらさを本当に意味で理解できないし,人の辛さを理解できないのは当然であって,誰が悪いわけでもないんだと思う.


 ただ,辛さは理解できなくても,辛さを感じている人がいることを頭の片隅に置いておきたい.


 「どんな人の辛さも分かってあげられる」という前提だと,
自分はそんな辛さを感じたことないからこの程度で配慮を求めるなんて甘えていとか,人の気持ちを理解できないなんて自分は冷たい人間だとか,そんなことを考えてしまうから,

 「自分は人の辛さを分かってあげられない」を当然のこととして,
自分には知らない辛さがあって,自分には知らない辛さで生きていくことに困難さを感じている人もいて,だから(自分は分からないけれど)辛いと感じているのならばそれをちゃんと頭に置いてやり取りできたらいいな,
と考えてしまった方が,いろいろと楽だ.


 誰かの辛さを実感をもってわかってあげられなくても,
辛い思いをしているという事実を認識すること,その辛さが軽減されるように何かできないか考えることだけでも,できるだろうか.

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!