家ついて行ってイイですかのドラマ、2話で見るの辞めてしまった

 評論家ではないので良し悪しを論じることはしません。
 良し悪しではなく、自分はどうして見るのを辞めたのか、自分が家ついて行ってイイですかの何が好きで、ドラマ版ではその好きな要素の何が省かれていたのかをちょっと考えてみようと思います。


「あえて描かない」のがよかった

 「家ついてってイイですか」は、番組名の通り、終電を逃した人にタクシー代を支払う代わりに家について行って話を聞かせてもらうという番組です。(ここでは「普段のほう」と呼びます。)
 「銭湯の回数券をプレゼントする代わりに家ついてってイイですか」「買い物代を支払う代わりに家ついてってイイですか」というパターンもあります。

 そこで「ついて来られた人」の話を元にして作られたのが「ドラマ・家ついて行ってイイですか」です。(ここでは「ドラマのほう」と呼びます。)

 普段のほうの番組だと、ついて来られた人からは思いもかけない壮絶な過去ややりきれない思いが語られて、我々視聴者はとても驚くわけですが、
当の本人はその壮絶な過去ややりきれない思いと共に人生を歩んでいるから、淡々と語る方が多いんですよね。
 勿論語っているうちに昔の記憶が蘇ってきて感情が高ぶる方もいらっしゃいますが、それだって自然なことだと思う。

 そうやって間接的に淡々と語られるだけだからこそ、見ている側は「ついて来られた人」がどんな人なのか・どんな人生を歩んできたのかに思いを巡らせてしまうような気がします。

 しかしドラマのほうは、その「ついて来られた人」が語った過去を実際に映像にするというコンセプトなので、
 なんというか、想像の余地があったものを1から10まで丁寧に説明してしまって逆に興ざめというか、どうやってもお涙頂戴に見えてしまう。


 あと、そもそも映像にすることで「これが事実です」と断言されてしまう感じもあまり好きじゃない。

 記憶って案外曖昧なもので、過去の自分がどう感じていたか・どう捉えていたかなんて、現在の自分が最も都合がいいように捻じ曲げてしまいがちだ。無意識に。
 そもそも物事の捉え方だって人によって違うでしょう。誰にだって、好きなもの、贔屓したくなるもの、認識したくないもの、トラウマ、偏見、そういったものがあって、そんなフィルターを通してしか世界を見られない。

 だから多分、その人の語る過去は、あくまで「その人の目を通して見えた、その人にとっての真実」でしかない。客観的な事実とは異なるものだと思う。

 でもそれをドラマ映像にしてしまうことで、「ついて来られた人」の語りがたった1つの絶対的な真実であるかのように感じてしまう。
 そうやって複雑な要素を排除してしまうのは、なんか寂しい。シンプルすぎる。


「どこかですれ違ってるかもしれない、どこにでもいる人」なのが良かった

 「ついて来られた人」は、壮絶な体験を語りながらも、終電を逃したり、スーパーで買い物したり、銭湯に行ったりする、どこまでも普通の人だ。

 逆に言えば、例えばコーヒーを買いに行ったコンビニとか、簡易書留を出しに行った郵便局とか、眠い目をこすりながら乗り込む朝の電車の中とか、私達が普段の生活の中ですれ違っている誰かも、もしかすると壮絶な過去や昇華しきれない思いを抱きながら生きているのかもしれない。

 そう思うと、偶然すれ違った誰もがとても愛おしく思えてくる。
 みんなそれぞれのしんどさと辛さを抱えながら生きていること、その辛さに気づけずにすれ違ってしまうことが、さびしくて、愛おしくて、悲しくて、やりきれなくなる。
 だからこそせめて、言葉を交わせた人には優しくありたいと思う。この世界に誠実でありたいと思う。


 というのが、自分にとっての普段のほうの番組が好きな理由なのですが、
 それを芸能人という手の届かない人&お涙頂戴な演出で再現してしまうと、共感できるポイントがなくなってしまうんですよね。


まとめ

 自分がドラマ版の家ついて行ってイイですかを好きになれなかった理由は、

・誰かの語りから想像していたものを、分かりやすい再現映像にして1から10まで丁寧に説明しないでほしかった
 これが正解の解釈ですよ、と提示されている感じが嫌だった

・どうやってもお涙頂戴にしか見えない(そういうエピソードしか引っ張ってきてない)

・いくら実際の語りが元とはいえ、ドラマになるとただのフィクションにしか見えない

あたりでしょうか。

 特に締める言葉もないのですが、自分としてはこんな感想でした。途中までだけで観られて良かったと思います。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!