帰省した わたしを構成する複雑な文脈とふるさとについて考える

 年末年始のお休みなので、ふるさとに帰省しておりました。


  個人的には、どんなものでもだいたい4日離れることで、それまで囚われていた思い込みや重たい義務感が体から抜けていく感覚があります。
 あえて悪いたとえをすると、毒を抜くための体の循環に4日かかる、とでも言いましょうか。

 古事記で出てきた黄泉戸喫を思い出します。
 正確にはあの世のものを食べたらこの世には戻れないという意味なんだけど、
その土地のものを食べて、その土地の空気を吸って、その土地の景色を見て、そんな生活を4日ほど続けることで、それまでの毒が出て行ってその土地に体が適応する準備が整うのかなぁ、などと考えておりました。


 御多分に漏れず、それまでの一人暮らしの生活で染みついた型・勢い・風習・毒、…といったものが年末年始の帰省のおかげで抜け落ちてしまい、はたして明日からどうやって生きていこうかと途方に暮れています。
 途方に暮れるというかそわそわしています。明日一人で目覚ましで起きるビジョンが描けないのです。そういう習慣も全部リセットされてしまったので。

 でも、ふるさとに帰ったことで新たに生まれたこの感覚も、一人暮らしの部屋で過ごす4日間によって流されてしまうのかな。


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 ふるさとでは、わたしはわたしではなく「○○さんのお孫さん」「××さんの娘さん」と見られます。
 わたしが「ただのわたし」ではなく、この地で脈々と受け継がれてきた歴史の礎に存在していること、わたし自身が多様で複雑な文脈の中に存在していることを改めて自覚します。


 わたしは、「○○さんのお孫さん」「××さんの娘さん」と見られるのが確か嫌だったはずです。
 わたしについて「ただのわたし」しか知らない、100%わたしだけを見てくれる環境にいられることが喜びだったはずなんです。

 でも、自分を構成する文脈の複雑さを再確認した今、「ただのわたし」しか見られないこと・「わたし」を構成するための土台となる膨大な文脈を全て無視されることについて、ひどく非人間的であるような、心細いような気持がするのです。



 わたしは、わたしが何者なのかを探し求めています。
 多分わたしの人生の目的の1つは、自分が何者なのかを問い続けることだと思っています。

 母親は、その「わたしとは何者か」のある種の答えを知っている存在だと思うのです。
 わたしとは、この女性から生まれた人間です。

 そして、わたし自身の文脈に大きな影響を与えるふるさともまた、「わたしがどんな人間なのか」を解き明かす大きな役割を持っています
 わたしはこの大地のもとで大きくなりました。心象風景にはあの山があります。この土地の特産の野菜を食べて、それらが血となり肉となりました。


 それくらい、文脈もふるさともかけがえのないものなのに。

 わたしは一体どうして、ふるさとから離れた場所で、文脈を無視される環境に身を置いているんでしょう。
 そんな場所で何をしたいのか、何を思って飛び出したのか、何にもわからなくなった。

 「わたしがわたしであること」の重要な1ピースであるふるさとと文脈を切り捨てることもまた、ひどく非人間的な行動のように思えてしまうのです。


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 ふるさとと文脈を切り捨てることって、誰かに無遠慮に怒りをぶつけている時の感覚に似ている、気がする。

 嫌いなあの人にだって、愛くるしい子供時代があって、その人にも両親や友人や子供がいて、そしていつかは年老いて死んでいく。そんな事実を見ないふりして、あたかも死が訪れないかのように仮定して、怒りを爆発させてしまう。あの感覚に。



 わたしはきっと故郷の梅の花を見られない。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!