自己イメージも好きなものも全て置いていって

 今まで全然見たことなかったのに、テレビで偶然やっていた体操の日本選手権をつい食い入るように見てしまう。

 当たり前の感想だけど、鉄棒とか床であんなにぐるぐる回って捻って跳んで…ってしてるのが本当にすごい。
 しかもただぐるぐる回されてるんじゃなく、体を捻るタイミングとか跳ぶタイミングをちゃんと自分で計算しながらやってるなんて。

 床では跳躍の他にダンスのパートもあって、芸術や構成の面でも評価されるのかしらと思ったり。
 体操出身のダンサーの方とかいらっしゃるんだろうか。宝塚出身の仙名彩世ちゃんは確か高校で新体操をされてたけれど。


 逆に、前々からテレビ欄でチェックして、番組開始の10分前にはテレビ前でスタンバイしているような番組は途中で見るのが辛くなったりする。
 見ないと覚えないと感動しないと、というプレッシャーをどこかで感じてしまう。

 元々体操が好きなわけではなかったし、見たくてテレビを付けたわけじゃない。
 でも、それくらい気楽に見られるものの方が楽しめているし、結局触れている時間も長い気がする。



 今まで、自分のアイデンティティを「自分の好きなものの」の一点のみに依存してきた。

 だって、自分がどこにいるのか、どんな人間なのか、自分は本当にここにいるのかがずっと分からないままだから。

 ただ生きているだけでは、自分を繋ぎとめるものがない。自分がどこにいるのか分からなくなる。
 だから、自分を自分として認識するために、「自分は○○が好きな人間だ」という意識に頼ってきた。



 自分にとって、「○○が好き」という意識は、自分の存在を確認するための唯一の手掛かりだった。

 だから「○○が好き」と認識したその瞬間から「○○を好きでいなければ」に変わってしまう。
 自分のアイデンティティを失わないために。自分自身の存在を不安定にさせないために。

 もしうっかり「体操見るの楽しいかも」と認識しようものなら、もう体操の試合中継を見るのがほんのり苦痛になることだろう。今のように、ちょっとTwitterを触りつつ、文アルしつつ気楽に見て楽しむことができなくなるだろうな。



 好きであることを認識して辛くなるくらいなら、いっそ何が好きか分からなくなりたい。


 ここまで書いて気づいたのは、今現在の自分がどんな人間であるかにあまりにこだわり過ぎていたなあ、ということ。
 もうしばらくは生き続けないといけないのだから、今現在の自分から変わらないわけがないのに。

 曖昧な自己イメージのまま、目指す目的地もないまま、胸の高鳴る方へ突っ込んでいったら、自分はどんな人間になっているだろう。
 その時辿り着いたところが、今まで探し続けてきた自分自身に関する疑問の答えかもしれない。
 その答えかもしれないものに出会ってみたいと思う。


 自分の事なんて分からないくらいで丁度いいんだ。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!