ぼくたちは 誰を思って・何を思って言葉を発しているのか に関するまとまらない文章

 メッセージを受信しました:「○○しちゃってごめんね!」

 こんな些細なことに対して本当に申し訳ないと思っているんだろうか。
 申し訳ないというより、「ごめんね」に対する一種のお決まりのような、全然気にしてないよ、平気だよ、等の返事を聞くために謝っているのだろうか。
 そもそも、そういう返事が当然もらえるとでも思っているのかな。試しに「絶対許さない」って言ってみたらどうだろう。


 お望み通り、お決まりの台詞「全然大丈夫だよ!気にしないで」を返してあげる。
 世間一般から見れば多分些細なことなんだろうけど、自分にとってはすごく気にすることだし、全然大丈夫じゃないんだけど。


***


 「人前で間違えるのは恥ずかしいことです。だから間違えたら恥ずかしがってください。そうすれば次からは間違えないから。」
 これは中学の時の数学の先生が言っていた言葉なんだけど。

 確かに、間違えるのは恥ずかしくないよと言ってくれる大人は沢山いたのに、もし失敗したらどうしようという強迫観念が消えないし、実際間違えたらその場から消え失せたくなるくらいの恥ずかしさを感じる(ただ、その恥ずかしさは失敗を笑う人達がいたせいのものであり、大人になるにつれて人を馬鹿にする感情を露わにする人は少なくなっていったように思います)。
 その意味では、この先生の言葉は自分の感じ方により近いのかもしれない。

 とは思うのだけど、感じ方は同じでも、この先生と同じ言葉を言う気にはなれない。

 あの日失敗した自分とそもそも失敗しやすい全人類のためにも「間違えても大丈夫だよ」と言い続けると思う。
 果たして失敗はみっともないことなのか、気にしなくていいのか、正解はどちらか分かっていないけれど。


***


 今までずっと、自分の人生もままならない人が他人の人生相談なんてのるもんじゃないよなぁと思っていた。

 というのも、自分の人生もままならない人(メンヘラともいう)は、相談者の悩みに対する言葉ではなく、自分が誰かにいってほしかった言葉を回答として与えてしまいがちだから。

 それって不誠実じゃないですか。
 かけがえなのない誰かの相談には、その人に合った、その人のための答えがあるはずなのに。相手に向き合おうともしないで、他人の相談に勝手に自分の傷を押し付けて、相手への言葉というふりをして実は自分に都合のいい言葉を言ってるだなんて。相手のこと全然考えてないし、そんなの自己満足じゃない。

 朝起きただけでえらい、なんて言ってるけれど、僕らが生きていくためには、寝て起きるための家や体を清潔にするための服や衛生用品や体を維持するための食べ物が必要なわけで、それらを揃えるためにはお金が必要で、お金を得るためにはそれ相応の仕事をするわけだから。
 朝起きただけでえらいけれど、そのえらい行動1つで全てがチャラになるわけじゃないので。


 とまあ思っていたんだけど、これまでの人生を顧みると、案外どんな人も自分(または誰か)に都合のいい言葉を無意識に発しているだけなのかもしれないなと思ったりもする。
 あの時の数学の先生と同じことをどうしても言えなかったり、逆にあなたはこういう言葉が欲しいんでしょ?って気持ちで心にもないこと言ってみたり。


 作品が発表された時点で読者のものになるように、発言も発せられた時点で発言者の手を離れ、その言葉を言われた人のものになるのかもしれない。

 そして、発言者の意図とは違う見方で発言が解釈されて、その解釈によって誰かを救うこともあるのかもしれない。

ここまで読んでくれたあなたがだいすき!