【HEAR公式シナリオ】お嬢様と私の日常事件録【渡辺葉】

【HEAR公式シナリオ】お嬢様と私の日常事件録【渡辺葉】

ひあひあ~!
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『お嬢様と私の日常事件録』本文

お嬢様「ねえ。今は何時(なんどき)かしら」

お嬢様は怒っていた。
もうかれこれ5分は狭い部屋の端から端を行ったり来たりしている。

私「午後の2時を10分ほど過ぎたところです」
お嬢様「あら、それは大変。自分で確認しなくて良かったわ。怒りのあまり時計を叩き割ってしまっていたかもしれないもの」

物騒だ。

私「確か、先方のご来社の予定は午後2時でしたね」
お嬢様「ええ、その通りよ。午後2時きっかりに、ここで向かい合ってなきゃおかしいの」
私「F社のサカタさんでしたっけ。商談ですか」
お嬢様「うちとの協業の話よ。先週話したじゃない。何よ聞いていなかったの?」
私「そうでしたか? 失礼しました。物覚えが良くないもので……。
ところで、それは本体の――タマモリの方から来た話なので?」
お嬢様「いいえ、F社から直接うちに話が来たの。今日が初顔合わせよ。家のことは関係ないわ」

タマモリというのは、このお嬢様ことタマモリミナコの生家である。
これが財界でもちょっと名のしれた一族で、インターネット黎明期と言われる平成初期に始めたIT事業が軌道に乗り、今や都心の一等地に自社ビルディングを構えるほどだ。

ここもそのタマモリ傘下の会社ではあるのだが、規模は小さく、オフィスもビルのワンフロアの一室を間借りしているような零細企業である。

従業員も私を除けば、あとは週に何日か来る事務方のパートくらいのものだ。

そんな我が社の経営を任されているのが、タマモリ家現当主の一人娘、ミナコである。

お嬢様というのは比喩でも揶揄でもない。彼女は名実ともに本物のお嬢様なのだ。

所作一つ取っても育ちの良さが窺(うかが)えるし、性格も御覧の通りの勝ち気さで、そのうえ容姿も可憐ときている。
とにかく”お嬢様”という概念を実体化したら、およそこんな具合であろうというような人物なのである。

もっとも、本人はそう呼ばれるのを大層嫌がるのだが。

一方、私についてはあまり語ることがない。

タマモリ家の縁戚(えんせき)という訳でもないし、お嬢様の召使いでもない。ただの雇用主と従業員の関係だ。

お嬢様に拾われただけの凡庸な一般人である。

そう、文字通り拾われたのだ。
寂れた路地裏で。

その時の私は、一言で言えばどん底だった。
人生の袋小路というのはああいう状況を言うのだろう。何もかもを掛け違えてしまって、まさに進退窮まった(しんたいきわまった)、そんな午後のことだった。

雨がしとどに降っていた。
薄汚れた壁に身を預けて座り込む私の前に、彼女は現れたのだ。

――あなた、なかなか良くってよ。
――うちに来るといいわ。

まるで捨て猫でも拾うような気軽さで、そう言った。

断る理由はなかった。
思い出すだに奇妙な出会いである。

今でも、あれは極度の脳疲労が見せた、ほとんど走馬灯に近い白昼夢だったのではないかとすら思う。そのくらい、鮮烈な一幕であった。

あれから1年ほど経つ。2人の出会いが夢や幻でなかったことの証明に、私は今日もここで働いている。

私「しかしF社といえば、最近台頭してきた業界内でも注目のベンチャーじゃないですか。
そんな旬なところからお声がかかるなんて、幸先(さいさき)良いですねえ」
お嬢様「あなたは本当にお気楽でいいわね。まあ、私を待たせるくらいなんだから大物には違いないわ」

これは相当にお冠である。
才媛といえど、そこはやはりお嬢様。基本的に待たされることには慣れていない。
しかし普段のお嬢様の行状(ぎょうじょう)を考えると、これでもかなり我慢している方なのだ。

何だかんだ言いつつ彼女とて今回の協業の話には魅力を感じている。でなければ、5分を過ぎたところでこの話は無かったことになっていたに違いない。

私「私からF社に連絡してみましょうか」
お嬢様「ええ、そうしてくださる」

そろそろ本当に時計を叩き割りかねないお嬢様を尻目に、私は卓上の電話機に手を伸ばした。

私「お世話になっております。わたくし、株式会社Aのタカシマと申しますが、営業部のサカタ様はいらっしゃいますか――」

それから数分の間、やり取りがあった。

私「――そうですか。では、失礼いたします。……先方、既に会社は出られているようですね」
お嬢様「ふうん」

気の抜けた返事だ。先ほどまでの癇癪ぶりが嘘のように覚めていた。

お嬢様は生来(せいらい)一つの感情を長く持続できない質のようで、ついさっきまでさめざめと泣いていたかと思えば、次の瞬間にはケロリとしているようなことも珍しくない。
良く言えば後腐れのないさっぱりとした性格だが、要するに非常な気分屋なのである。

私は構わず報告を続けた。

私「今朝サカタさん本人がうちとのアポの予定があると言っていたそうですから、忘れたり、日時を勘違いしていたりということは無さそうですよ。
道にでも迷っているのかもしれません。この建物は入り口が判りづらいですからね。ちょっとそこいらを見てきましょうか」

言いながら、椅子の背に掛けてあった上着を手に取る。

すると、それまでどこか上の空で話を聞いていたお嬢様が、ふと思い立ったようにこう尋ねた。

お嬢様「ねえ。さっきの電話であなたの相手をしていたのはどちら様なの?」
私「電話の相手ですか? サカタさんの上司ですよ。名前は確かミヤタさんとおっしゃっていたような……」
お嬢様「名前はどうでも良くってよ。そんなことより、上司が電話番をしていたというの?
確かサカタさんからしてマネージャーだかリーダーだかの肩書きをお持ちだったはずだわ。
彼の上長ということは、それなりの役職の方なんじゃなくって?」
私「ああ、違いますよ。最初に電話に出たのは別の方で、おそらく新人じゃないかなあ。随分と初々しい対応でしたからね。
その人が取り次いで出てきたのがミヤタさんですよ。
私も本人が出てくるものと思っていたから多少驚きはしましたが。
わざわざ不在の部下に代わって電話応対をするくらいですから、うちとの協業の話に先方も乗り気ということじゃないですか」
お嬢様「あなた、本当にそう思う?」
私「どういう意味です?」
お嬢様「いえ。何でもないわ」

お嬢様はそれだけ言うとふいとそっぽを向いて、それきり黙ってしまった。

うつむく横顔の、そのまぶたの縁から伸びる長いまつげが、頬のまろやかな曲線に沿って影を落としている。
それが滴る涙のようにも見えてどこか寂しげだ。実際はそんなしおらしいお嬢様ではないのだが。

私は何だか所在なく、努めて明るい声で話を続けた。

私「そうそう、そのミヤタさんからサカタさんの社用の携帯電話番号も入手しましたから、そちらにも掛けてみましょう」

控えた番号を手早くダイヤルし、応答を待つ。

私「――ああ、駄目ですね。繋がらない」

電源が入っていないか電波が入らない場所にいるらしい。不通を知らせる旨の、あのお決まりのアナウンスが流れている。

私「やはり一度外を見てきますよ。F社からここへ来るのに地下鉄なんかは使わないはずだし、
ただの充電切れであれば良いですが、万一何かあっては困りますからね」

まさかとは思うが、行き倒れでもしていたら事である。

お嬢様「……ええ。そうね、そうしてくださる」

相変わらず覇気のない声だ。

彼女の態度にどこか引っかかりを覚えつつ、今度こそ本当に外へ向かおうと上着を着込んだところで、卓上の電話が鳴った。ディスプレイに表示されているのは、F社の番号である。

お嬢様と顔を見合わせてから、受話器を取る。

無論今度こそサカタからの折り返しを期待していたのだが、しかし受話器の向こうから聞こえてきたのは聞き覚えのある、しかも記憶に新しい声であった。

私「ええ、ええ。――そうですか。それは大変だ。はい。――いえ、こちらは構いませんよ。ええ、残念ですが」

話しながらお嬢様の方をちらりと窺(うかが)う。
彼女はどうやら聞こえてくる会話で全てを察したらしく、大層不服そうな顔をしている。私は電話の相手に聞こえぬよう小さくため息をこぼした。

私「ええ。それでは、どうぞお大事になさってください」

失礼しますと言って受話器を置くと、暫(しば)しの沈黙が訪れた。

ややあって、お嬢様が口を開いた。

お嬢様「もういいわ。皆まで言わなくて結構よ。サカタさん、来られなくなったのね?
本人だか、ご家族だか、あるいは飼っている犬だかが、瀕死の重傷で出てこられないって言うんでしょう?ねえそうなんでしょう?」

ご立腹である。

私「ご本人です。ここへ来る途中で腹痛を訴えて救急車で運ばれたそうですよ。たった今病院からF社に連絡があったらしく、それでミヤタさんがうちに掛けてこられたそうです。
ちなみに盲腸だそうで、命に別状は無いとか」
お嬢様「ええ、そうでしょうとも。盲腸だろうが白内障だろうがどうでもいいことよ。ああ、もう。こんなことってないわ」
私「どうでもいいだなんて、滅多なことを言うもんじゃありませんよ」

斯(か)く言う私も、すっかり調子を取り戻したお嬢様を見て、しょげているよりは良いか、などと考えているのだから人のことは言えないのだが。

お嬢様「あなた、それ本気で言っているのかしら」
私「どういうことです?」
お嬢様「まったく、あなたのお人好しにも呆れたものだわ。もう一度F社へ電話をしてご覧なさい。
そうすれば全てがわかるから」
私「F社へ? 電話を掛けて、それでどうしろって言うんです」
お嬢様「ミヤタさんを呼びつけるのよ」
私「呼びつけるって……。やはりお嬢様に電話対応は任せられませんね」
お嬢様「そのお嬢様っていうのは止してっていつも言っているじゃない。うちのじいやの真似なんかする必要ないのよ。あなたはその気安いのが良いんだから」
私「気安いつもりもないのですがね」

私は苦笑しつつ受話器を取った。本日四度目である。

そして、半ばお嬢様の戯れに付き合うような気持ちで、F社へ二度目の架電(かでん)を試みたのだった。

私「お世話になっております。わたくし、株式会社Aのタカシマと申しますが――。ええ、度々失礼します。営業部のミヤタ様はいらっしゃいますでしょうか。――え? いえ、先ほど応対くださった方で――。はい、はい。
――そうですか。――いえ、大変失礼いたしました。では ――」

締めの挨拶もそこそこに、通話はものの数分で終わった。

私「一体どういうことだ?」
お嬢様「どうかなさって」
私「お人が悪い。あなたはこうなるとわかっていて私に電話を掛けさせたのでしょう? おかげで大恥をかきましたよ。
弊社にミヤタなんて名前の社員はいないと、門前払いを喰らいました」
お嬢様「ふふふ」

お嬢様が愉し(たのし)そうに笑った。お嬢様らしからぬ悪い顔だ。私は素直に白旗をあげることにした。

私「降参です。一体何が起こっているのか、私にはさっぱりですよ。どうかこの凡骨(ぼんこつ)にもわかるように講釈いただけませんか」
お嬢様「良くってよ」

私を出し抜けたのが余程嬉しかったのか、お嬢様は上機嫌だ。どうかと思う。

お嬢様「簡単なことだわ。まず、F社にミヤタという名前の社員はいない。それは疑いようのない事実よ」
私「しかし最初に私がF社へ電話を掛けたときには、確かにミヤタと名乗る人物へ取り次がれたのですよ。それはどう説明するんです?
その交換手までもが嘘を吐いていたというんですか? よもや社員全員がグルだとか?」

お嬢様「まあ、そんなことをして一体何の意味があるのかしら。いいこと? 最初に電話に出た社員は、あなたに言われた通り、間違いなくサカタさんへ電話を取り次いだんだわ。
だってその社員は電話を取り次ぐときに一言だってミヤタなんて名前は出さなかったはずよ。
本人が不在だとも、その代わりに上司を出すともね。
それもそのはずよ。あなたにサカタさんは居ないかと聞かれて、本人が席に居るのを認めて、電話をまわしただけなんだから。その証拠に、あなただってミヤタと名乗る人物が電話口に出るまで、サカタさんご本人に取り次がれると思っていたのでしょ?」
私「ああ、そうか!」

私は遅ればせながら、お嬢様の言いたいことを理解した。同時に、自分のあまりの間抜けさに頭を抱えたくなる。

私「私はずっとサカタさん本人と話をしていたのですね。つまり、ミヤタと名乗る人物は、ミヤタと名乗ったサカタさんだったと」

考えてみれば当然の帰結である。私はサカタという人物とはこれまで一切面識がない。当然のことながら電話でも話したことが無かった。
故に彼の声など知らないのだ。電話口で本人かどうかを見抜く術がない。

お嬢様「ええ、その通りよ。まるで江戸川乱歩の”一人二役”だわ」
私「ううん、乱歩のとは随分話の趣(おもむき)が違うように思いますがね」
お嬢様「あらそう。でも仕方がないじゃない。あなたが面白そうに読むからちょっと嗜(たしな)んでみただけで、私は他に探偵小説なんて知らないんだもの。
とにかく、サカタさんは盲腸で緊急入院なんかしていないわ」
私「でしょうね」
お嬢様「どころかずっと会社の自分のデスクに居て、何なら今この時も、のほほんと茶でもしばいているに違いないのよ」
私「サカタさん扮するミヤタの言葉は全てデタラメだったということですか。そうなると、彼から聞いた社用携帯の番号というのも一体どこへ繋がっているものやら」

お嬢様「ああ、それはきっと本物よ。おそらく、あなたが会社に掛けてこないように敢えて番号を教えたのでしょうね。流石に何度も同じ手で切り抜けるのは厳しいもの。
かといって、デタラメな番号や他人の番号を教えてはすぐに露見してしまうか、繋がらなければやっぱり会社の方に問い合わせるでしょう。であれば本当に自分の番号を渡しておいて、端末の電源を切っておくのが一番安全よ」

私「なるほど。もしかしたら、社用携帯ですらなく個人所有の携帯だったのかもしれませんね。他の業務に差し支えないように」
お嬢様「あり得るわね。まったく馬鹿にしてるわ」
私「ええ、同感です。ところで、サカタさんはどうしてこんなことをしたのでしょうね」
お嬢様「どういう意味かしら?」
私「どうって、そのままの意味ですよ。営業マンであるサカタさんが何故こんな策を弄(ろう)してまで、今日の面会を台無しにする必要があったのです? そもそも協業の話を持ってきたのは彼の方なんでしょう。
結局サカタさんは何をしたかったのでしょうか。あなたはどうお考えなんです」
お嬢様「ああ、動機というやつね。あなた本当に好きよね、そういうの」

お嬢様はつまらなそうに言った。

お嬢様「そんなの決まってるわ。その協業の話を白紙に戻したかったのよ。それも、できる限り角が立たないようにね。
良くある話よ。末端では話が進んでいるようでいて、実は社内のキーマンには話が通ってなくて、いざ稟議を通そうとしたらストップがかかるとか。
まあ、要するに冷静に考えてうちとやることに旨味がないと判断したのでしょうね。大方そんなところよ、きっと」
私「他にもっと良いパートナーが見つかったとか?」
お嬢様「さあ、そんなこと知らないわ。いずれにせよ、こんないつバレてもおかしくないような三文芝居でお茶を濁そうと言うんだもの。
本当にもう、うちとは金輪際この話を進める気が無いんだわ」
私「そうですか」
お嬢様「何よ。納得できないの。あなたやっぱり娯楽小説の読み過ぎじゃなくて。言っておくけど、現実ってこんなものよ。劇的な真相なんてものは無いの」
私「いえ、滅相もない。さすがのご慧眼(けいがん)だと感心していたんですよ」
お嬢様「どうも白々しいわね。まあいいわ。この話はこれで終わりよ。一つ立ち消えたところで、仕事は他にもたくさんあるんだから。さっさと業務に戻りましょう」

その言葉通りお嬢様は以降この件について言及することはなく、間断(まだん)なく続く日常に埋もれ、徐々に私の記憶からも薄れていった。

しかしその一週間後に配信された、あるネットニュースの記事を切っ掛けに、思わぬ形で再びF社の名前を目にすることとなる。

私「驚きましたね。取締役が逮捕とは、今頃社内は上を下への大騒ぎでしょう」
お嬢様「ええ。粉飾決済(ふんしょくけっさい)ですって。内部告発で発覚したらしいわ」

要は経営者による不正である。

私「しかし今思うと協業の話が流れたのは幸いでしたね。あのままF社に関わっていたら、我々にも損失があったことは確実ですから」
お嬢様「幸いですって? 何も良くなんかないわよ。こんな結末はつまらない。お粗末だわ」
私「現実はつまらないものだと私に諭したのはあなたじゃないですか」
お嬢様「あら、もしかして根に持ってらしたの」

お嬢様がくすくすと笑う。のどかなものだと思った。いずれ対岸の火事である。

やにわに電話が鳴った。私用の携帯電話だ。
私はお嬢様に断りを入れ、執務室を出る。

そのまま屋上へと向かいながら通話ボタンに指を滑らせた。

私「――はい、タカシマです。 ――ええ、はい。ちょうどお嬢様とその話をしていたところですよ。ええ。大丈夫です。何も気付いてはおられません」

そう、お嬢様は知らない。

お嬢様は先方が手を引いたのはあくまでF社の意向だと思っているが、実際は違う。

あの茶番はサカタ個人が企てたことである。

もっと言えば、お嬢様のご実家――タマムラ家から依頼を受け、私がサカタとごく個人的な取引を結んだためであった。

ただし、あの素人が書いた探偵小説のような、お嬢様曰く三文芝居の筋書きは私の創作ではない。私はあくまで金を握らせ、手を引くように言付けただけである。

一つ弁明させていただくなら、サカタ本人と面識がないというのは一応本当だ。念には念を入れて、取引には間に人を介して臨んだ。

だから私としても、その後の顛末は想定外だったのだ。のみならず、F社の不正の件さえ知らされていなかった。

私とて傀儡(かいらい)に過ぎないのである。

私「――ひとつ聞いてもよろしいですか。あなた方は近いうちにF社で内部告発による摘発があることを予め知っていた。だからこそ協業の話を潰したのでしょう?
何故、彼女に全てを打ち明けないのですか。
こんな回りくどいやり方をせずとも、事情を知っていればお嬢様だって最初から乗らなかったはずだ。 ――はあ、そうですか。私にはあのお嬢様がそんなに聞かんぼうには思えませんがね」

今回の件について、タマムラ家はお嬢様が彼らの意向を素直に聞き入れないだろうと頭から決めつけていたらしい。
それで私にお鉢が回ってきたのだ。

事実、お嬢様とご実家の関係はあまり円満とは言えない。

詳しい事情は知らないのだが、まあ彼女の性格を考えれば、あのいかにも旧弊的な当主とは馬が合わないことは明白である。
おそらくタマムラ家の傘下であるこの会社へ就職すること自体、お嬢様の本意ではなかったのだろう。

私「――お嬢様とご当主の確執は余程深いものと見える。いずれにしろ、私には関係の無いことですがね。
――ええ。お嬢様の利にならないことを排除する。その一点のみにおいて、私はあなた方と利害関係を結ぶ。そういう約束ですから。 ――とんでもない。あなたこそ”じいや”などと呼ばれて、全幅の信頼を寄せられているじゃありませんか」

彼女は知らない。

今回の一連の騒動の裏側も、タマモリ家の人間が私の電話番号を知っていることも。

あの気高く聡明なお嬢様は、己に関することほどよく知らない。

それが哀れでいっそう可愛いのだ。

いや、敏(さと)いお嬢様のことである。ひょっとしたら自分を取り巻く環境や人々の思惑を、実際のところかなり正確に把握しているのかもしれなかった。

だがそんなことは関係がない。私はただ彼女の日常を守るだけだ。

彼女が退屈そうに語る現実を、劇的ではない人生を。

あの雨の午後、彼女が私を拾ったその日から、そう決めているだけのことである。

お嬢様「あら、何よ。この寒いのに屋上へあがっていたの?」
私「わかりますか」
お嬢様「ええ。何だか纏っている空気がひんやりしているもの。気をつけてちょうだいよ。これからの時期に風邪なんて引かれたらたまったものじゃないわ」
私「心配していただけるとは恐縮です」
お嬢様「あなたって時々嫌味なくそういうことを言うから反応に困るわ……。毒気を抜かれるというか。私は感情の起伏が激しい質だから、いっそう不思議よ」
私「自覚はあったのですね」
お嬢様「今のは馬鹿にしてるってわかるわよ」
私「これは失礼。いえ、馬鹿にしたつもりはないのです。それがあなたの良いところですから。
私など感性が貧しいだけの、つまらない人間ですよ」
お嬢様「ふうん。でも、そういう割にはあなたって何だかいつも幸せそうだわ」
私「そう見えますか」
お嬢様「ええ。少なくとも、あなたが何かに深く思い悩む様なんて、私には想像がつかないもの」
私「なるほど。おっしゃるとおりかもしれません。
私はきっと、幸せ者なんでしょうね」

お嬢様の目が、わずか見開かれたような気がした。

――ああ。私は今、一体どんな顔をしているのだろうか。


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