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窓から見る世界は 絶えず その姿を 変え続けている〈全ては 時間の中で 姿かたちを変え続けている〉《1557字》

おんなじ 窓枠の向こう側(世界)には

時が 流れ
季節は 移り変わっています

陽も 月も
宇宙の定める時の道を 辿り


月光は 闇夜も 照らし

陽光は 時に
まっすぐに その行く先を
その光で射し示す


今 在る 状態は
留まり続けること 無く

刻々と 姿 形を 変え続けています

窓枠に見る世界は 今 この時 この一瞬の
切り取った世界の ほんの一部に 過ぎない

けれど
窓枠に映る世界が 全てだと人は勘違いする

肉体を通した感覚に頼るよう経験する肉体を纏う人生は 五感を通って 意識とか 精神、心、魂といわれる領域へと伝搬されてゆきます

その時

「目に見るものが全て、五感から感じられるものが全て 」...と 人は時に 惑わされる

そこから抜け出すのには 肉体を通した五感以外の感覚を 磨いてゆく必要があります


過去に引きづられ
「今」に その景色の影響を与えられたとしても

未来 在りたい姿の 思い描く状態(世界)の 「今」に、 執着を 引き込まなくても

時は 絶え間なく 移り変わり
生じては 消え去ってゆくもの...


過去は 過ぎゆき
絶えず変化を促されながら「今」を迎え
その「今」さえも 過ぎれば 過去となって行く

未来を 描いたものは
「今」に 迎える時が 来ます


そして それらもまた 過去へと 絶えず 移り変わる 「時」の中に 人は 生き続けている


絶えず移り変わる 「時」の中で 変わらないものは ありません

人の心(意識)さえ その中で磨かれ 柔軟に 変化変容しています。

目に映るものを見て感じる世界から「目覚め」を経て 魂とか意識が 磨かれて行くと、

目に見えない領域を感じ取る能力が高まって 想像以上に拡大してゆく世界を 人は体感してゆくように 成ってゆくでしょう。




全てが 移り行く状態の世界に居ながら
「断片的に見る(見せられる)一定の “もの” が 移り変わるに過ぎない一点に存在する “違い” あるもの達(もの・こと・人・状態・環境など)」から、

何かを掴み 修得し 進化、変容、成長して行く時間を 人は 生きている。


絶え間無い変化の中で それらを 活かし どう生きようと選択して行くのでしょう。

自分だけの世界では 開くことが出来なかったものも、「次の次元へ続く扉」を 次々と開けてゆくための「経験」を 幾つも超え、成長、進化、変容といわれるものを体験し 自らの魂を錬金させてゆくための 違いある人達と生きゆく人生です。

経験を経て 体験し 実感すると 目には見えない 心とか魂、意識の領域が みるみる変わってゆくのを 感じられるようになって行きます。


それらを
どんな心の目をもって どんなものを観ようとしてゆくのでしょう。

次へと活かす 今、を生きゆく人達の心(意識とか精神などといわれるもの達)は それに伴って行きます。

人は 「今」に
何を 観ようとして
何を 心に抱くのか...

どんな「想い」が 湧き上がり
どんな「言葉や行動」と してゆくのか……


そして
どんな未来を創造しようと
「意図」としてゆくでしょう…


どんな困難や難題を前にしても ネガティブな感情や状態に 留まり続けようとするのでなく

その本流に流れる

「真理」とか「目には見えないほんとうは大切なこと」……を 見つけようと 歩む姿に 私は心打たれます。



「無常」の中に居て 人は どんな宝物を 掴むことが出来るでしょう。



むじょう《無常》

仏教用語。梵語アニトヤ(anitya)の漢訳。生じたり滅したりして変化し、同じ状態にとどまっていないこと。移り変わりの世界。仏教ではあらゆる存在がそのようであるとして諸行無常という。また一瞬の間のみ現在に止まるのを念々無常、人の命が尽きるようなのを相続無常という。無常の理を説いた『無常経』(一巻。義浄訳)がある。
世界宗教用語大事典《無常(むじょう)》

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