奈良クラブを100倍楽しむ方法#033 第33節対 ヴァンラーレ八戸 ”イメージの詩"
遅ればせながらアニメ『葬送のフリーレン』を見終わった。昨年の本放送の時期は仕事が非常に忙しく、やっと見始められると思えばそのまま一気見だ。第二期も制作決定とのことで、続編が待ち遠しいところである。
『フリーレン』は劇伴も良いし、物語の仕掛けも面白い。種族によって寿命が違うという一種の時間的な”ラグ”を、登場人物の価値観や倫理観の違いの根拠にしているところが、この作品の一番の魅力だろう。ただ、それだけでいくと『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』や『アニメ平家物語』など、山田尚子作品に分がある。この作品のもう一つの魅力は、魔法というものの解釈だ。
魔法使いの登場するアニメにおける「魔法」というのは、努力して得るものであったり遺伝的に受け継がれるものであったりと、作品を超えてある程度の共通項がある。『フリーレン』においては、魔法の一番重要な要素に「イメージすること」が上げられているのが面白い。この作品において、自身の魔力をどれだけ引き出せるかは、その魔法の効果だけでなく、相手に勝てるかどうかも含めて「イメージすること」が最も重要だ。自分がどれだけ強くても、相手に勝つイメージができなければ勝てないし、相手の方がどれだけ強くても相手の魔法に打ち勝つイメージができれば勝利できる。だから、相手の戦略=イメージを超える何かを自分が用意していたり、相手の魔法に打ち勝つイメージができれば力量差を度返しして勝つことができる。この「イメージする」という言葉は劇中に何度も繰り返されるので、作品のなかでかなり重要な要素なのがわかる。
中田監督のコメント
さて、この話を踏まえた上で、この試合の中田監督のコメントを読んでみよう。
J3第33節、対ヴァンラーレ八戸は0−0のスコアレスドローで終わった。YSCC横浜がSC相模原に敗れたため勝ち点で追いつき、得失点差で18位へ上昇。かろうじて降格圏から抜け出した形になる。試合は非常にタフな内容で、引き分けという結果そのものは妥当以上の手応えはある。よく掴み取った勝ち点1だ。ただし、だからと言ってこの試合の内容を手放しで喜んで良いものかは疑わしい。試合をご覧になられた方も同様ではないだろうか。結果そのものよりも、試合内容に言語化しにくい違和感を感じなかっただろうか。コメントを見る限り、監督の指摘している部分と僕が奈良クラブの課題だなあと思っているところがかなり似ているように感じた。今回はここについて、ざっくりとではあるが記述してみようと思う。
この日の相手ヴァンラーレ八戸は、あと少しで昇格プレーオフというところにつけているチームだ。ヴァンラーレ八戸といえば、今シーズンホームのロートフィールド奈良において初勝利をおさめた相手。しかし、その時の八戸とはまるで別チームという印象である。あの時対戦した八戸は、オリオラ・サンデーへの縦パスが基本戦術であり、そこにボールが収まってから動きだすチームだった。だからオリオラを抑え込めば必然的に全体を抑え込めるシステムになっていた。今は違う。3−1−4−2という前輪駆動のフォーメーションから繰り出されるハイカロリーなプレッシングを基本戦術とし、非保持でも保持でもゴールを奪うことのできるチームへ生まれ変わった。特に非保持のときは、クロップが率いたチームのゲーゲンプレスにも似た「前へ、前へ」というプレッシングから相手のボールを奪い取り、そのままゴールへと最短距離で結びつける。岐阜や北九州といった強豪がこの戦術の餌食になり、大宮にも勝利まであと一歩のところまで迫った。かなり手強い。苦戦は必至、そのなかでどれだけ勝つイメージを持てるかがこの試合の見どころであった。
試合そのものは、奈良クラブは押されつつも自分たちでコントロールできる時間もあり、やられっぱなしというものではなかった。2度ほど惜しいチャンスもあった。しかし、それ以外での見せ場はあまりなかった。ミクロな視点で見れば個々の選手の奮闘はあったのだが、試合をトータルで見た場合に勝てそうなイメージが持てないものだった。奈良クラブの選手たちの雰囲気も、「負けたくない」というのは伝わってくるのだが、むしろそれが強すぎて自分たちの足枷になっているように思う。前回書いた「楽しいプレー」がない。「正しいプレー」の徹底は有効だが、この日はそれが強調されすぎて「間違いではないプレー」の選択につながっていたように見える。おそらくこれが中田監督のいう「無意識にやってしまっていること」だ。それが前述した違和感の正体ではないかと考えている。シンプルに言ってしまうと「負けないようにプレーしていた」ことを120%評価した前提ではあるが、それを上回るほどに「勝つことを怖がっているように見えた」ということだ。
勝つことを怖がっている?
ここで心理学の話をすると膨大な量になってしまうので、かなり省略しての記述になることを最初に断っておく。本当はもっと精緻で小さなブロックを積み上げるような議論をしなければならない。それを承知で簡略化したもので説明してみる。一応、僕にとって一番専門性のあるアドラー心理学の考え方をベースに書いていることを表明しておく。ので、興味がある方はちゃんと専門的な書籍に当たってください。
人間は生きる上で感情によって行動が駆動されている部分が大きいわけだが、その「感情」という燃料が「行動」を規定していると考えてみよう。人には使いやすい「感情」があって、それが思考の癖として固着化している。しかし、自分ではそれが普通だと思っているので、他人から見れば「なんであんなことしてるんだろう」と思っていても、本人は「一番合理的な判断をした」と考えているというケースがある。なかなか本人には気づきにくいところだ。本人よりも見ている他人の方がよくわかるというケースは多々ある。アドラー心理学でよく例に挙げられるのは「ついカッとなってなぐった」という事例だ。「ついカッとなって」というとき、「本当は嫌だった」「そんなつもりではなかった」というニュアンスが含まれる。しかし、アドラー心理学はその逆をいく。本人は最初から「なぐる」つもりだった。それをスムーズに行うために「ついカッとなって」という怒りの感情を使うことにしたのだ、と考える。だから、「なぐる」という行為は不可抗力ではなく、あくまで自分で選択して行動したというふうに考え、本人の主体的な判断だったという立場を崩さない。なぜなら、これを不可抗力とすることで責任逃れができるからだ。このような行動が繰り返されるというのは、その人が「怒り」という感情を一番使いやすいと感じているからで、「本当は嫌なのに」というのはそれを正当化するための手段であり方便であるという。カウンセラーというのはこれを見つけて本人に知らせることを生業としている(なお、僕はカウンセラーではない)。
ここ最近の奈良クラブの選手たちは「負けたくない」という感情が固着化してしまい、イーブンな状態で「前に出よう」「攻めよう」という感情よりも前に、「やられたらどうしよう」「ミスったらどうしよう」という感情が先に選択されるので(そういう傾向が癖づいているので)、チーム全体の連動性が希薄化しているように思う。セーフティなプレーを選択することが「合理的だ」と思い込んでしまっているがゆえに、それ以外のプレーの幅を自ら放棄しているのではないか。先日のFC大阪戦でも、奈良クラブにとって、もっとも良い時間に失点を喫したのは、そんなメンタルでの躊躇があったからではないか、というふうに見える。
くどいほど繰り返すが、奈良クラブの選手は誰も手を抜いていないし、よく戦っている。今日のMVPは神垣だ。相手のチャンスの芽を摘み取り、機を見れば前線まで飛び出してゴールを奪おうと働き続けた。素晴らしい活躍だったと思う。問題はプレーの最後のところ、仕上げの部分である。シュートまでいくほんの少し前の局面、あるいはラストパスを狙うのか安全に横に繋ぐのかの局面、そこにわずかな躊躇がある。その躊躇が積み重なって、自分たちの首を絞めているように見える。この試合もパスを出す相手を探しているうちに前後からプレスをかけられてボールを奪われてしまい、もう一度守備をし直さざるを得ないシーンが多々あった。これが続くとチーム全体のラインがズルズルと後退してしまい、相手ゴールは遠のいてしまう。得点が増えないのも、勇気を出して一歩前に出なければならないところでそれができていないからではないか。
フリアンの時を肯定するわけではないが、彼はこの課題をシステム化することで「こういう場面でこう動けば、チャンスは作れるんだ」という設計をしていた。それが選手たちの迷いを吹っ切らせ、その定型化された攻撃の精度を上げることでゴールへと迫ろうとしていた。今はそこが選手に任されているので、フリアンの時以上に、個々の選手が勇気を駆動させてゴールを奪いにいかないといけない。あるいは、ミスを恐れず相手のボールを奪い取りに行かなければならない。今日そういうシーンは何度あっただろうか。
解決策はある。冒頭に話に出した『葬送のフリーレン』も、実は似たようなことを主題にしている。エルフという極めて長寿の種族(寿命は1000歳を軽く超える)の生まれであるフリーレンは、それゆえに物事への執着がない。執着がないので、人間のことをあまり知ろうとしない。エルフの寿命からいくと、人間はあまりに短命なので、人間のことを知ったところですぐに亡くなってしまうからだ。そんな彼女に強烈な価値観の変革を促すのが勇者ヒンメルである。詳細は省くが、彼との出会いと別れがフリーレンの価値観を変えていく。フリーレンは劇中でことあるごとに「ヒンメルならそうした」というセリフを述べる。「よく意味はわからないけど、ヒンメルならそうするはずだから、私もそのようにする」という行動の決め方を随所でしている。そして、その行動からのリアクションによって、フリーレンはヒンメルの行動や言葉の意図を再起的に思い出していく。これは自分の使い慣れた感情や行動を変えるために、他人になりきってみることでこれまでの自分を変えていこうという営みである。アドラー心理学ではこういう存在を「導きの星」と表現することがある。フリーレンにとってはヒンメルは導きの星だ。奈良クラブにも勇者ヒンメルのように、導きの星となれるような存在はいるだろうか。
待望の酒井選手の復帰
おそらくそれは酒井選手になるのではないだろうか。シーズン前の大怪我からリハビリを重ね、ついに復帰を果たした酒井選手。この試合の彼の雰囲気はかなり異質だった。両チームともに降格とプレーオフという切羽詰まった状況にあるなかで、1人だけ「やっとプレーできるようになった。楽しいなあ」という喜びに溢れたプレーをしていた。皆が緊張感でガチガチになっているなかで、酒井だけが楽しみながらプレーしているように見えたのは僕だけではないだろう。明らかに彼のプレーする雰囲気は他とは違った。チャンスこそなかったが、彼とパトリックの2トップになってから奈良クラブは押されていた流れを押し返すことに成功する。彼の存在感が、奈良クラブを良い方向に導いてくれるような気がする。
この一説は「イメージの詩」のなかで最も有名な部分だろう。おそらく、だけどこの当時の吉田拓郎は「ボブ・ディランが日本語で曲を作ったらこうした」という感覚で作曲していたのではないだろうか。彼自身がボブ・ディランになりきって書いてみた。この曲もディランの楽曲によく似たものがあるので「パクリ」と言われることもあるのだが、本人にしてみれば「そんなわかりきったことを言うなよ」という感じに思う。吉田拓郎にとって、ボブディランが「導きの星」だった。彼は憧れの存在になりきることで、音楽への感情を駆動させていたはずである。奈良クラブの選手も、もっと自分の憧れの選手になりきってプレーしてみてはどうだろうか。神垣選手や森田選手は、好きな選手にセルヒオ・ブスケッツを上げている。ブスケッツのプレーは余裕たっぷりで相手をいなして、ここというタイミングで絶妙のパスを送り込む。迷いそうになったときに「ブスケツならこうする」というイメージでプレーできれば、チームに推進力や自信を与えるように思う。
根をもつこと、翼をもつこと
社会学の名著、真木悠介の著作『気流の鳴る音』には「根をもつこと、翼をもつこと」という名文句が登場する。実はこの言葉から「両サイドのウィングがサイドに張り出すことでチームが魅力的になる」という持論の根拠にしているのだが、それは今は置いておく。また機会があれば、これについては詳しく書こうと思う。
以前僕は、監督交代後の奈良クラブを「等身大」と表現した。しっかりと根を張り、ベースはできた。しかし、翼がなければ飛ぶことはできない。翼だけがあってもどこかへ吹き飛ばされてしまうが、今根はしっかりと張っている。自分たちを見失うことはもうないだろう。だったら、そんな自分たちを超えてみようじゃないか。残り5試合、僕たちがもっている翼をどれだけ羽ばたかせることができるかが勝負の分かれ目だ。翼は誰かから授かるものではない。翼は自分たちのなかにある可能性だ。そんな翼を広げ、高く高く大空を飛ぶ奈良クラブを見てみたいのは、きっと僕だけじゃないだろう。
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