現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」その4?

この記事に続き,今回もちょっとしたお話をするとしよう。テーマは「失業(unemployment)」あるいは「不完全雇用(underemployment)」である。

1 employment(雇用)ってそもそもどういう状態のこと?

un-という接頭辞は否定を指すことが多く,under-という接頭辞は「下回る」ということを指すことが多い。失業や不完全雇用という単語の英語版についても,この事情は変わらない。とすると,失業や不完全雇用という表現を考えるにあたっては,どうしてもemploymentという単語の意味を考えてみる必要があるのだ。ゆえに,われわれはまずこの単語(多くの場合に「雇用」と訳される単語)について言及しよう。

employmentという単語は,employという単語の名詞表現であるから,employという単語の意味を考えることが必要である。この辞典によれば,employという単語の語源は以下のようなものであるらしい。

>「中に(in-)折り込む(plico)こと」がもともとの語源。㋠㋫ employer(用いる)⇒ ㋙㋫ emploier(用いる)⇒ ㋶ implico(包む)⇒ ㋶ in-(~の中に)+plico(折る)⇒ ㋑ pel-(折る)が語源。<

㋠㋫というのは中期フランス語のことを,㋙㋫というのは古記フランス語のことを,㋶というのはラテン語のことを,㋑というのは印欧語源のことを表している。

中に折り込むことというのがemployの元々の語源であるという立場から考えると,雇用という単語の,厳しい側面の一つがわかってくるかもしれない。その側面というのは,雇用されている状態というのは,自らが何らかの中に折り込まれているという状態を指しているという側面である。しかも,資本制生産様式(平たくいえば資本主義)社会においては雇用というものは,資本と労働(あるいは土地所有)との間の関係においてとらえられることになる。資本は労働と違って労働に従事する人間をひとり解雇したところで,資本自らが被る影響は軽微だが,労働に従事する人間が解雇されることになれば,その人自らが被る影響は甚大である。
(ちなみに,資本の体現者としての経営者には本来的に,失業している状態にある人々の在庫を求める動機が備わっている。より正確に言えば,資本主義において資本の欲求を忠実に再現しようとすることを選択した人間にとって,失業者の存在というものは何としても必要なのである。この事情は,資本の体現者たる経営者の不遜であるとか非道徳であるとかに,その原因を求めることはできない。資本の欲求は資本自らの不断の価値増殖にあるのであって,しかもその価値増殖は貨幣の形で,つまり金融資産の形でなされることを資本は望んでいるのだから。カール・マルクスの偉いところの一つは,このような事情を個人の道徳観を糾弾することなしに,発見し記述したところにある。)

ちょっと話が脱線したように思われる。employmentという単語の話にもどそう。ここの段階でわかっておいてほしいことは,employmentという単語には,あたかも契約によって対等?であるように仕向けられている雇用契約に潜む,何かが別の何かを中に折り込む,という感覚があるということだ。

2 租税は失業を生み出す

租税は失業を生み出す,という言葉はこのシリーズ(現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」)のどこかの記事で登場していたように思われる。この言葉は,現代貨幣理論(MMT)の創始者(あるいは父)と言われているウォーレン・モズラーの言葉である。(この言葉の,より正確な表現は次のとおりである:租税の目的は失業を生み出すことである<the purpose of tax is to create unemployment>(Wray(2015),Modern Money Theory, p. 149.))

このMMTの租税認識並びに失業認識に立つと,失業をなくす根源的な方法は次の二つに絞られることになる。
1:租税を全廃する
2:失業状態にある人に,必要とされる納税額は絶対に下回らないだけの通貨を供給する(租税に必要な通貨の量を上回る通貨が供給される状態を作る)

1の方法については,およそ権力というものの存在を全否定しようとする人間にとってのみ魅力的にうつるものであろう。全ての租税がなくなれば,失業状態に追い込まれる人は,なくなるけれども(なぜなら租税を払うための通貨を獲得するための労働を行わなくて良いから)そんな状態になれば通貨の存在意義がなくなってしまうことになるので,あるいは政府の仕事が,必要最低限なものであってもできなくなってしまうことになるので,現代貨幣理論の立場で見ると,租税を全廃するという方法は,失業をなくすための方法としては,およそ取ることができない方法である。(例えば,政府(通貨を発行する主体)を革命によって倒したいという欲望に取り憑かれている人が,租税の全廃を訴えるということはあるのかもしれないが,この記事ではそれ自体の妥当性を考察しないことにする。)

とすると,2の方法を考えることになる。2の方法を実行するためには,民間部門(あるいは非政府部門)だけの事情に,その方法の実行を任せることはできない。なぜならば,民間部門内で考えるのならば,金融資産の総量は(金融資産の裏側には同額の金融負債があるから,金融負債の総額と言っても良い)変わらないからである。民間部門にいるAさんとBさんの二人がいて,Aさんが10円をBさんに与えたとすると,BさんがAさんの10円を受け取ったその瞬間においては少なくとも,Aさんの金融資産は10円減って,Bさんの金融資産は10円増えたことになる。AさんとBさんという,一つの同じ部門に属する人間たちが,いくら金融資産(その裏側としての金融負債)のやり取りを行ったところで,彼ら彼女らの金融資産の総額はまるで変化しないのだ。ある部門全体における金融資産の増減をもたらすものは,別部門からの金融資産の注入または吸収である。

3 椅子取りゲーム

1節においてemploymentという単語のお話をして,2節で租税は失業を生み出すというお話をしてきた。ここにきて突然「椅子取りゲーム」の話をするとはどういうことか,と思われる人もいるだろう。だが,この話をすることは,民間部門だけでは失業問題が(租税を全廃するという方法以外では)解決できない,ということを主張するために必要な話となるゆえ,少しばかりお付き合いいただきたい。

100人が椅子取りゲームに参加し,90席の椅子を目掛けて争うことを考えよう。全ての椅子のサイズが同じであることを想定し,一つの椅子には一人しか座ることができないと想定する。そうすると,必然的に10人は椅子に座れないことになる。(座ろうとするその瞬間瞬間において,熾烈な争いが繰り広げられることになり,どの10人が椅子に座れないか,ということについては全く考察の埒外にあるが,それでも10人が座れないという結果に変わりはない。)

では次に,残った90人が80席の椅子を目掛けて争うことを考えよう。(椅子を手に入れられなかった10人のことは,ここでは「どういうわけか」無視されている)結果はこうだ:やはり90人のうちの10人は座ることができない。
そしてこのような椅子取りゲームを何度か続けていくことを考えれば…椅子に座れる人間と椅子に座れない人間との間の,数の逆転が起こることもあるかもしれない。座れない人間の数が座れる人間の数より多くなるくらいに,何度も椅子取りゲームが行われるかもしれないのだ。

さて,この椅子取りゲームのお話が、失業や不完全雇用とどう関わってくるのかというお話である。1節では,資本は失業者の存在を必要とするという話をしたのを覚えているだろうか。失業者の存在があるからこそ,資本は景気循環と言われるものの影響を最小限にしつつ,自らの価値増殖をひたむきに行うことができるのだ。

そう。100人の人間に90席の椅子…お分かりになる人もいるでしょう。これは,民間部門における労働と資本との間でなされる雇用の数,のことを表現しているのである。資本は失業者の存在を求めかつより(資本にとっての質が高い)労働者を求めるものであるから,この椅子取りゲームの争いは熾烈を極めることになる。そして,そのゲームに負けた(働きたいと思っていても働く場所を得ることのできなかった)労働者は,資本にとって必要となる失業者の在庫として「もれなく」資本から認定されることになる。

この構造をベーシックインカム(あるいはユニバーサルベーシックインカム)で解決できるなどと思い上がっている人間がどうやら,経済学をかじってしまった人間の中にもいるようなのであるが,それは大きな思い違いであり,しかも働きたいと思う人間をも邪魔する(なぜなら,機械に労働を任せたところで,人間労働がなければその機械を動かすこともできないという社会制約があるからだ)ことになるのだ。(資本からしたらベーシックインカムは都合のいいことこの上ない。自発的に失業を選択することをより許容することにつながり,それは雇っている労働者をより強く使役することを可能にするからだ。そしてより強く使役したせいで使い物にならなくなってしまったら,自発的に失業している状態の人間を雇えば良いのだから。そして…この後に続く展開は,すでに現代社会においても登場している過労死と似た展開が,規模を大きくしたものとなるだろう。贈与がどうとか言っている人間がいるが,そのような貨幣の絡む贈与というものの,特に一方的に与え続けられることの恐怖をまるで考えたことのない人間なのだろうと思われる)

重要なのは,働きたいと思っていても働くことが許されないという状況を作り出している民間部門の存在に対して,政府部門がどう立ち向かうのかという話である。資本が望む均衡は労働にとっての望ましい均衡とは限らない。ベーシックインカムは全ての人間が全ての意味において立場が対等であるということを前提とし,かつ,ベーシックインカムがなされている間においても対等な立場関係が変化しないという前提がなければ,機能を果たさないものである。そんな諸前提を成り立たせることは,いわゆる「共産主義」における社会であっても不可能だ。(そもそもこの記事の執筆者は,いわゆる「共産主義」に微塵の魅力も感じない人間であり,はっきり言ってそれは,人間が人間であることによって植え付けられている悪性を無視しているものにしか見えないと思っている。)

要するに,失業あるいは不完全雇用を作り出している政府が,同じく失業あるいは不完全雇用を認め,かつそれを歓迎する資本と同じ立場に立つのか,あるいは別の立場に立つのか,という視点でemploymentという問題(あるいはその裏問題?とでもいうべきunemploymentあるいはunderemploymentという問題)を考察していくことが必要だということだ。

現代貨幣理論は,そもそも失業は租税を課す政府が生み出しているのだからという理由もあって,失業あるいは不完全雇用を歓迎する資本とは同じ立場を取らない選択肢が,政府には可能であるだろう(何せ政府は通貨の発行者でもあるのだから)という立場をとる理論である。理論だからと言ってバカにしてはならない。

「批判の武器は武器の批判にとって代わることはできず,物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた,それが大衆をつかむやいなや,物質的な力となる。理論は,それが人間に即して[ad hominem]論証をおこなうやいなや,大衆をつかみうるものとなるのであり,理論がラディカル[根本的]になるやいなや,それは人間に即しての論証となる。ラディカルであるとは,事柄を根本において把握することである。だが,人間にとっての根本は人間自身である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫,邦訳85ページ)

この記事はここまでとしておく。Bye for now!

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