現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」その3?

MMTを学び,MMTで修士論文を書いた私がお送りする「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」」であるが,今回はこの記事に引き続いて「その3」ということになる。この記事の目標とするところは,以下のことを皆様に納得していただくことにある。すなわち…

経済において自然なことなど,なに一つとして存在しない

ということを皆様に納得していただきたいのである。このことを納得してもらうこととMMTとがどういう関係にあるのか,と思われる人もいるだろうが,そういう人に向けてもこの記事は書かれている(及び開かれている)ので,どうかお付き合いいただきたいところである。

1 自然利子率

わが国における自然利子率の動向」という,日本銀行(日本という国に存在する中央銀行のこと)が2016年10月に出した文章を参考にして,まず「自然利子率」とはどういう定義で説明されるものなのかを,紹介したい。

「自然利子率とは、経済・物価に対して引き締め的にも緩和的にも作用しない中立的な実質金利の水準のことである。経済理論において自然利子率は均衡実質金利とも呼ばれ、「完全雇用のもとで貯蓄と投資をバランスさせる実質金利」の水準として定義される。すなわち、実質金利が自然利子率を上回れば(実質金利ギャップがプラスであれば)、産出量を完全雇用水準から低下させることとなり、ひいては物価を下押しする。逆に、実質金利が自然利子率を下回れば(実質金利ギャップがマイナスであれば)、産出量や物価を押し上 げることとなる。」(日銀,2016年,1ページ)

さて,この文章を見て「自然利子率」がどういうものなのか検討をつけることのできる人はいるのだろうか。少なくとも経済学を学んで数年経っているわたしにとっては,まるでわからない,というのが率直な感想だ。経済学に全く触れたことのない人がわからないのは,無理のないことであるけれども,大切なことは,経済学を学んだ人がこの引用文を読んで「自然利子率がなんのことかわかったぞ!」となってしまわないことである。

「自然利子率とは、経済・物価に対して引き締め的にも緩和的にも作用しない中立的な実質金利の水準のことである。」とのことらしいが,「中立的な実質金利の水準」というものはどういうものか。「引き締め的にも緩和的にも作用しない」という限定がかかっているところを見ると,どうも「なにも影響を及ぼさない」あるいは「新しい影響を与えない」という意味が,含まれているようだ。とするともはやおかしいのである。

なにがか。「なにも影響を及ぼさない」あるいは「新しい影響を与えない」というものをどうやって人間が把握することができるのか,ということをまるで気にしていないことである。そもそも人間は全く静止しているものや全く変化しないものを観察することができない。なぜならば,観察する側も動いていれば観察される側も動いているからである。あるいは別の言い方をすれば,変化が先で定常が後,と言っても良い。経済現象は動的現象である,とするのならば,自然利子率という言葉のナンセンスさ,無意味さはより増してくるだろう。

さらに「自然利子率」(という言葉に対するこの定義)には問題がある。それは「「完全雇用のもとで貯蓄と投資をバランスさせる実質金利」の水準として定義される。」と述べていることである。「完全雇用のもとで」という限定がくっついている以上,完全雇用でない状態を考える際に,自然利子率という言葉を使うことはできないのである。完全雇用でない状態(資本制生産様式,平たく言えば資本主義,においては完全雇用でない状態が基本である。その理由を述べることもまた大切なのであるが,少なくともこの記事においては,かたや過労死で亡くなってしまう人や,かたや失業に追い込まれている人が存在している,という事実でもって,その理由説明の代わりとさせていただく)が基本である以上「自然利子率」というのは意味をなさない。

無意味なというよりも,存在することが有害な概念というものは残念ながら存在してしまっている。「自然利子率」というのはその一つである。したがって,MMTでは「自然利子率はゼロだ!」という主張が展開されることになる。この「ゼロ」は,数値としてのゼロの意味もあるが,もっと大切なことは,存在しないことを表現する記号としてのゼロ,という意味をもっているということである。ゼロという数字の発見は,数学においてはものすごい大きな発展可能性を与える発見であっただろうが,およそ人間を除外して考えることはできない経済において,「自然利子率」というものを想定する経済学は,どうやら誤りを拡大再生産するという意味での発展をしてしまっているように思われる。そして,さらに問題なのはどうして存在しないものを存在するかの如く扱い,しかもそのように扱っていることを,特に経済学に没頭する人間は忘れてしまうのか,ということにある。

2 自然失業率

「自然利子率」という極めて不自然な言葉と,親戚関係にあるのではないか,などと思わせるような言葉として「自然失業率」という,これまた極めて不自然な言葉が存在してしまっている。では「自然失業率」という言葉の説明の一つを,ここを見ることによって確認してみよう。

「期待インフレ率と現実のインフレ率が一致し,実質賃金による労働力需給の調整が達成されるような長期均衡状態において成立する失業率。 M.フリードマンによって提唱された。自然失業率の水準は,財市場,労働市場構造的・制度的条件,つまり市場の不完全性,需給の確率的変動,情報収集コスト,移動コストなどによって規定される。この自然失業率は J.M.ケインズ完全雇用における失業率に近い概念といえる。またフリードマンはフィリップス曲線について,期待で修正されたフィリップス曲線を想定し,期待と現実の物価上昇率が一致するという意味での長期のフィリップス曲線は垂直であり,どのような財政金融政策がとられたとしても,失業率を一時的に自然失業率以下に低下させることは可能であるが,長期的には自然失業率を下回ることはできず,最終的にはインフレのみが生じるとしている。」

はあー…「期待インフレ率」とか「現実のインフレ率」とか,「実質賃金による労働力需給の調整が達成されるような長期均衡状態において成立する失業率」とか,言われてもですねー。なんだかよくわからないのですよー。いや,経済学を勉強していながらわからないと表明するとは何事か!と思われる人もいるかもしれないのですけれども,わからないものはわからないと言えないようでは,知的誠実さに欠けるというものなのです。

どうも,「均衡」することをもって「自然」と表現することが多いような経済学用語。均衡することが本当に自然なことなのか,ということへの問いは無視されやすく,均衡を邪魔するものを不自然なものとして,そしてその不自然の原因の一部は政府にあるとして,政府を攻撃していれば頭が良いふりができるような経済学が,存在してはなかろうか。大体,均衡しているからといって,それに肯定的な評価を無条件に与えるということにはならない。

MMTの重要な貢献の一つと言える言説として,失業は政府によって(より正確に言えば租税を課すことによって)発生する,というものがある。ということは,そもそも自然なる失業率などは存在しないことになる。失業率は,MMTの立場からすれば政策変数なのだ。政策変数であるということは,政策のいかんによって失業率の数字を変更できるということだ。失業が存在しているということは,相対的に財政支出が小さすぎるか租税額が大きすぎることの現れである,というのがMMTの基本姿勢の一つである。

債務対GDP比などという,およそ意味不明な指標が存在しているのですが(意味不明すぎるので説明することはしないですけれど,だって債務対GDP比っていう時の「債務」はストックで「GDP」はフローなのですよ? 物理学で言うとしたら,単位の違うもの,例えばエネルギーと力,で比をとっているようなものであって,無次元な量にならないわけですから,比を取る意味がないのです。もっと言えば,ある時点におけるりんごの個数に対する,一定期間全部のみかんの個数を比較するような,無意味な指標が債務対GDP比なる指標なのである)その指標がどう言う数字を弾き出しているにせよ,失業が(あるいは不完全雇用が)存在しているのであれば,やはり財政支出が小さすぎるか租税額が大きすぎることを表していることになる。

また「自然失業率」は,完全に意味が重なるというわけではないにせよ,「インフレ非加速的失業率」というふうに呼ばれることもある。「インフレ非加速的失業率」は,Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment,略してNAIRUという言葉の日本語訳である。インフレーションを加速させないようにするためには一定の失業は許容せねばならず,失業を増加させないようにするためには一定のインフレーションは許容しなければならない,要するに,インフレーションと失業との間のトレードオフ(その二つを同時に追い求めることはできない状態)を表現するものとして,NAIRUという概念は経済学の中ではそれなりに有名な位置を占めている。

3 自然なことなどないのが当然である

The Economy is Us,という言葉は確かどこかで紹介したことがあったと思うが,経済は我々だ,ということで,人間の関与しない経済というものが考えられない以上,「自然なんちゃら」とか「なんちゃらは自然だ」とかいう言葉を,経済のお話をする際に無自覚に,無批判に用いてはならない。むしろ,そのような言葉が経済のお話をする際に出てきたとしたら,それはなににとっての,あるいは誰にとっての自然なのですか?と思わなければならない。

一人一人が置かれる社会的立場の違いによって,しかもその社会的立場の存在自体は,その一人が立ち位置を変更したところで抹消されることのないような社会的立場(例えば,資本と労働と土地所有とのいずれかを担うことになっている人間の立場)の違いによって,なにを自然とするかの評価は異なってくる。簡単に言えば,立場が違えば目的も違うことが多い,ということである。目的が違うのであればなにをもって自然とみなすかの判断基準もまた,異なってくるものである。

……

と,ここまで色々と書いてきましたけれども,今回の非公認「101」は,書き手がその内容の全てを把握した上で書いているというよりも,書きながら書く内容の赴くままに書いたものである。別の言い方をすれば,書いている状態に身を任せて書く内容が決まっていったというものである。したがって,この記事は「読者と共にMMTに対して考えを深めていこう」というものとなっていると書き手は信じる。

誤った問題を提出してそれを解こうとするのは実は簡単な話であり,難しくも知的な誠実性が要求されるのは,正しい問題を提出するということなのだ。しかも正しい問題を提出するということは,同時に正しい答えを提出することに等しくなる場合がある。問題を提出する論理体系と,それに答えを与える論理体系が一致しているのかしていないのかは,それ自体として大きな問題の一つを成している。

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