現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」その2?

今回の記事は,この記事(そしてこの記事)の続編である。したがって,今回の記事を読まれる際には,前回までの記事たちをご覧になっていると,よりわかりやすい,より理解しやすいものになっている...とは必ずしも言えない。

ズコーッ★

「何を言っているのかこの記事の執筆者は!」と思われたあなたは,至極当然の反応をしていると思うので,どうかその反応を忘れないでいただきたい。私が言いたいことは,この記事で書かれることは前回までの記事と,一見すると関係がないようなことである,ということである。

どういうことだ?

それは,続きを読んでもらうことを通して,理解をしていただきたいと考える。とはいえ,何も話題を提供することなしに,記事を読むということを読者に強いるわけにはいかないから,キーワード(鍵となる言葉)を先に示しておこう。それは以下のものである。

キーワード:「経済は我々だ。(The economy is us.)」

1 好きでも嫌いでもついてまわる「経済」

私たち人間は,どんなに好きであろうともどんなに嫌いであろうとも「経済」から離れて,生きて暮らすことはできない(ひょっとしたら死んだ後にはそれなしで暮らしていけるのかもしれないが,「人間は死を体験しない」生き物なので,死後の世界の話はしないことにする)。突然に産み落とされ突然に死んでいく私たち人間にとって,「経済」というものはいわば,腐れ縁のようなものである。しかも「経済」は,相当に付き纏う能力において傑出した高さを誇る腐れ縁であるように思われる。

今日という一日を思い返してみてほしい。私たちは寝ていた状態から起きている状態に移り変わるところから,一日を始めることがほとんどであろう。寝ている時でさえ「経済」から離れられない,というのが言いたいことである。どういうことか。私たちが寝ている状態を維持するためには,少なくとも寝ていることのできる場所が確保されていなければならない。ではそのような場所はどのようにして確保されているのだろうか。誰かしらが何らかの活動をすることによってである。

私たちは起きている時にも「経済」から離れることはできない。こちらの方が,むしろわかりやすいかもしれない。起きている時には寝ることはさておくとしても,食べたり飲んだり動いたり作ったり改造したりぼーっとしたり落ち込んだりイラついたり......などなどの様々な活動をしている。それが意識的なものであれ無意識的なものであれ活動しているということに変わりはない。では,私たちがそのような活動ができているのはどうしてだろうか。そのような活動を行うための設備だったり環境だったりを誰かしらの活動によって,あるいは自分の活動によって確保できているからである(自分の活動だけによって得られることは,ちょっと考えればほとんどない,ということがわかると思う)。

要するに,私たちは「経済」から離れることはできないのである。

(この部分は読まれなくても問題ない。が,一言申し添えておきたいことがある。人間が活動するということをゼロにしてくれるような機械は,マクロ(巨視的)視点から見ればあり得ないという話である。「シンギュラリティ(技術的特異点)」のおかげで人間は労働から解き放たれる,みたいな妄言を信じている人間が存在するが,信仰の自由としてそれを信じることはともかくとして,その妄言を現実にすることはあり得ないということを言っておくことにする。「シンギュラリティ」なるもので機械が発達したとしてもその機械を作ったり考えたり見直したりする労働は人間が行うものであるからだ。)

2 「経済学」...それは人間学の一種なり

私たちが「経済」から離れられないとするのであれば,経済学という学問はどういう学問なのだろう。ちょっと考えてみてほしい。

数学を道具として使いこなして,インフレーションの増加率を予測したり,賃金の推移を予測したりすること?

数学は使わないけれども,経済学者と言われる人たちが書いた書物を読んで思想を展開すること?

あるいは

お金を儲けるための手段を研究するための学問が経済学なのだろうか?

他にも思うところはあるように思われるが,この記事の執筆者としては,どうも上に書いた提案には諸手を挙げて賛同することは到底できないのである。どうしてなのだろうか。それは,人間がいないからである。別の言い方をすれば,人間の顔が見えないからである。

「経済」というものが私たち人間から離れて存在することがあり得ない以上,「経済学」という学問は「人間学」という学問の少なくとも一側面を占めなければならない。「経済学」の話を聞いて人間について考えることを,その聞き手に想起させないのであれば,その話は失敗しているのである。

繰り返そう。「経済」の話をするものが,その話の聞き手に「人間」について考えさせるきっかけを与えることに失敗するのならば,その話をするものは失敗している,のである。

3 現代貨幣理論(MMT)と人間

ここで,現代貨幣理論(MMT)の話を登場させる。現代貨幣理論(MMT)の主要な提唱者の一人であるランダル・レイは,彼が書いた本にて次のように述べている。

「MMTの研究は,思想史,経済史,貨幣理論,失業と貧困,金融と金融機関,部門収支,景気循環と危機,金融政策と財政政策を含む,経済学の様々な分野に及んでいる。MMTは,理論の様々な要素を大幅にアップデートし,統合してきたが,その大部分は異端であって,いわゆる主流派には属さない」(レイ『MMT現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,邦訳38ページ。強調は引用者による。)

なるほどなるほど。MMTがアップデートしてきた要素の多くは主流派には属さない...と。とすると,何か小難しい話をしているから主流派には属していないのか,というふうに思わせる節があるように見える。

ところが,同じく現代貨幣理論(MMT)の主要な提唱者の一人であるステファニー・ケルトンは,彼女が書いた本にて次のように述べている。

MMTというレンズは今とは違う社会,すなわち医療や教育,インフラへの投資をまかなうことのできる社会を思い描く力を与えてくれる。欠乏を受け入れるのではなく,機会に目を向けさせてくれる。私たちが自らを縛っている神話を克服し,財政赤字は本当は経済にとって好ましいものであることを受け入れれば,国民(human)のニーズと公共の利益を優先する財政政策を追求することができる」(ケルトン『財政赤字の神話』早川書房,邦訳30ページ。()と強調は引用者による。)

レイの本からの引用よりもずっと,具体的なことをケルトンのこの引用は述べている,と読者には思われるであろう。この記事の執筆者も同じように思う。ただ,ここですぐに述べなければいけないことは,専門家の人がかく文章というものは,特にそれが「入門書」のつもりで書かれていたとしても,難しく見えることがほとんどであるということだ。レイの先ほどあげた本は,「入門書」ではあるのだが,それでも簡単な話ばかりが書かれているわけではない。

というわけで(どういうわけなのだ?とツッコミが入ることを予想するものであるが,そのツッコミはツルツルーっとスルスルーさせてもらいたい★)現代貨幣理論(MMT)は人間について「想像力」を掻き立ててくれる側面のある理論であるといえるのだ。

今日はここまでとしよう。続きはまたいつか。さよなら〜!


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