現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の非公認「101」その1?

どこから現代貨幣理論(MMT)の話をするかということそれ自体に,その話をするものの現代貨幣理論(MMT)に対する態度があらわれることは,おそらくほとんど疑いようのない事実であろう。このことが事実かどうかはこの記事では争わず,現代貨幣理論(MMT)の,この記事の執筆者が思うところの「101」を書いてみようと思う。なお「101」とは,「ワン・オー・ワン」と発音され,その意味するところは「入門講座」とか「初級コース」とかいったところである。

1 お金の使われ方

お金(money)というものは,それをたくさん持っている人も中くらいの程度で持っている人も,あるいはそれを持っていない人も,「それを最低限所持していること」を要求されるという意味では,なかなかに強権的なシロモノである。「それ(お金)を最低限所持していること」が要求されるとはどういう意味かといえば,お金を最低限持っていなければ,生活必需品が買えなくなるという意味ではない。勿論そういう意味がゼロであるということを言いたいのではないが,お金がなければ生活必需品が買えない,という理由から「お金を最低限所持していること」が要求されるという結果は導かれないと言いたいのである。なぜならば,正当な手続きを踏むことができる人は,お金を所持していないくても生活必需品を手に入れることができるからである。その経路はたとえば,行政に頼ることだったり地域の住民に頼ることだったり,あるいは家族に頼ることだったりする。

お金を所持していなくても生活必需品を手に入れる状況が,少なくとも正当に手続きを踏むことのできる人にとっては存在するという事実があるとして,では,それでもなおどうして「お金を最低限所持していること」が要求される人々が大多数を占めているのであろうか。現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」は,この疑問に対して次のように答えるであろう。

「税金を支払うために,お金を最低限所持していることが要求されているのである」と。

国家が国家たる条件として「税金を回収すること」と「分配を行うこと」という二つの事柄が必要である...のように,大上段に国家について語るというところから,「税金を支払うためにお金を最低限所持していること」が要求されるということを語ることも良いかもしれないが,この記事は「101」をうたっている以上,「国家について」みたいな話し方は避けて,身の回りの現象を語ることから説明を試みよう。私たちの中で,とくになんらかの仕事についている人やあるいは仕事にはついていなくても,住民税という形で税を支払っている人は,税金を支払うということを,積極的になすか強制的になされるかはともかくとして,行ったことがあるだろう。税金を支払うと,自分の所得(所得という言葉には,場合によっては達成感などの質的なものを含めることもあるであろうが,ここでは「お金」の金額によって表示されるもののみを意味することとする)の一部が「消える」事になる。普段からの自分の所得から,おおよその「税金額」を推定することが習慣になっている人にとっては,税金による所得の減少は予想される出来事の一つとなっているかもしれないが,税金を支払うと自分の所得の一部が「消える」という点は,変わらない。

勿論,この世に生きている人々の中には税金を支払うことを要求されない人々がいる。たとえば,生活するための所得の最低限に届いていないために税金の支払いを正当な形で免除される人々である。だが,このような人々がいるという事実は,「税金を支払うためにお金を最低限所持すること」が要求される人々がいないということを導くものではない。むしろ,税金を支払うことが要求されていながら税金を支払わないことをするとなれば,国家はそのようなことをする人に対して厳しい罰を実行することになるだろう。いわゆる「脱税」ということを行った人に対しては,下手をすれば日本の場合には国税庁捜査局というところに勤める人が,強制捜査を行うことだってあるのである。

要するに,現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」は,少なくとも国家に住む人々の多くにとっては「税金を支払うためにお金を最低限所持していること」が要求されている,という現実を踏まえているのである。(なお,社会保険料などといった,一見するところでは税ではないように見えるものも,自分の所得の一部が社会保険料の支払いによって消えている,という点に着目するならば,広い意味で税に含めることもできるのである。)

2 「税金を支払うためのお金」はどこから来た?

国家に住む人の大半の人々にとって,税金を支払うということが要求されていて,しかもその要求を果たすためには,お金を支払うということが基本的に必要となっている(食べ物や服などを納めるという形で税を支払うということを認めている国家が存在するかもしれないけれども,お金を支払うという形で税金を支払うということを要求する国家が大半であろう)。とするならば,即座に疑問に思うことがある。

「税金を支払うためのお金」はどこから来るものなのであろうか,と。

勿論この疑問に対する答えかたは一つではないだろう。たとえば,働くことによって「税金を支払うためのお金」を得るのだ,とか公的機関を訪れることによってそのお金を得るのだ,とかである。だが,この答えには一つの弱点がある(より正確に言えば,弱点というよりは,説明が途中で終わってしまっているという感じである)。働くことや公的機関を訪れることによって「税金を支払うためのお金」を得るにしても,そのお金を発行しているところはどこなのか,という説明が欠けているのである。現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」は,「税金を支払うためのお金」を発行しているところはどこなのか,という質問に対して次のように明確に答えるだろう。

「税金を支払うためのお金を発行しているのは,税金を支払うことを人々に要求している主体である」と。

この言明は,いったいどういうことを言っているのであろうか。日本において考えてみるとしよう。日本国に住む人々(細かな法律的用件の話はここではできない。なぜならその用件の詳細については,この記事を書いている瞬間の私にはわからないからである)が税金を支払う際には,「円」という単位で表示されたお金が必要とされる。そのお金が具体的なものとして形を持ったものの一つが日本銀行券である。日本銀行券を発行する主体は日本銀行という銀行であり,日本銀行は今の所,日本国家における唯一の中央銀行である。円という単位で表示されたお金の,具体的な形を持ったものとしての一例として,硬貨を上げることもできる。硬貨を発行する主体は日本においては,日本政府であり,日本政府は今の所,日本国家における唯一の中央政府である。あるいは,具体的な形を持っていない「お金」というものも存在する。たとえば日本銀行が発行する,具体的な形を持っていない「お金」としては日本銀行当座預金というものがある。日本銀行当座預金というものは,簡単に言えば日本銀行が発行する「データ」として存在するお金のことである。それは硬貨や日本銀行券のような形は持っていないのである。

さて,ここで思考実験として,中央政府と中央銀行がお金を発行する,ということを一切行わずに,その国家に住む人々が税金を支払うための方法を考えてみることにしよう。その方法は何通りかあるように思われる。たとえば,日本において考えると,中央政府と中央銀行が円というお金を発行することなしに,ドルというお金を,税金を支払う唯一の手段としてみるなどである。だが,この方法は即座に破綻する可能性がある。なぜならば,ドルというお金を得ることができない人々が多い状況で,このような措置を日本国家が取るということは,税金を支払うという命令を下しておきながら,その手段を提供し得ないという形になる可能性があるからである。言い換えれば,税金を支払う方法を定めることのできる主体が,その方法を実行する手段を同時に発行することを約束し,その約束を実際に実行することがなければ,税金を支払うことを命じる命令が効果を失うか,その命令を実行しようとする別の手段を,その命令を受ける主体に創造させる結果になるのである。

要するに,現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」は,税金を支払うためのお金はどこから来るのかという疑問に対して,税金を支払うことを要求する主体からくるのだ,と答えるのである。そして,税金を支払うことを要求する主体は現代の多くの国家にとっては政府(とその政府機能の一部を担う中央銀行)である。したがって,税金を支払うためのお金は、政府(と中央銀行)から来るのである,という結論が,現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」が,現実のお金の動きを観察する中で発見したことの一つなのである。(そして,この結論から導かれることとして,いわゆる「租税が貨幣を動かす」(Taxes drive money )という話があるのであるが,この記事では,税金を支払うための手段を発行する主体が,税金をその手段で支払うこととその手段による税金受け取りを約束することとによって,税金を支払うための手段を受け取ってもらうための需要(必要)を生み出している,という意味程度の説明でとどめたいと思う。)

3 「101」その2?への布石

この記事は,現代貨幣理論(Modern Monetary Theory; MMT)の,この記事の執筆者なりの「101」(入門講座,初級コース)であり,私たちが普段使っているところの「お金」がどこから来るのか?をするための記事である。ここで即座に補足しなければならないことは,現代貨幣理論(MMT)はこの質問に答えるためだけのものではないということである。言い換えれば,現代貨幣理論(MMT)という「レンズ」が描写する現実の射程は,この質問に対する答えに限定されない,ということである。

「101」その2?でどういうことが書かれるかは,それを書こうと思った時の私の状況に左右されるとしか言いようのないわけであるが,「101」を書くということは私に課しておきたいと思う。極力専門用語は使わずに,日常的に使われている用語に即して「101」を書いていきたいと考えている。我々人間は,言語を離れて思考することもできないし,ましてや言語を離れて何かを伝えることも究極的にはできないからである(言語を使わないで何かを感じ取るということそれ自体は,可能であるばかりか,むしろそのこと自体はしょっちゅう起きているわけであるが,言語を使わずに感じたことを伝えるということになり,そしてそのことを相手に受け取らせることを目的とするのであれば,言語が必要となるのである)。

「101」その2?において,こういうことを書いて欲しいとか,この記事に対して質問があるとか感じた人は,この記事にコメントを残してくれるとありがたいです。では,現代貨幣理論(MMT)の「101」その1として書かれたこの記事を書き終わることとします。Bye for now!


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