困惑...それは好機なり

この文章は, 一年くらい前に書かれたものとなりますので, ご注意ください.

1 ミスはするもの

人は言う. 「ミスを減らせ」と. 人は言う. 「間違いを減らせ」と. されど私は思う, と言うよりも疑う. すなわち人は「ミスや間違いを減らせる生き物なのか」と. 私はミスや間違いを減らそうとする方法の模索と同時に, ミスや間違いを犯してしまった時の対処法の模索を行うことが極めて重要であると考える. 人間の真価はその人間の好調なときにではなく彼または彼女が調子の悪い時に現れるものである. とするならばミスや間違いを犯してしまった時にその人間の真価が現れるといっても良いのだから, 私はバイトにて教えている生徒さんに対しても私自身に対しても間違いやミスを犯してしまった時に, それにいかに気づきいかに対処していくかについて考えることが有用かつ重要であると言い聞かせているのである.

2 人と違うところを探すという私の癖

今日は部活の後にアフター(部活動終了後に行われる部員同士の食事会のこと)が終わった後に部員の一人から次のようなことを言われた. すなわち「人と違うところを探してどうしたいのですか」と. 私はこの質問に対して一瞬困惑した. なぜなら私は何かをするときに自分で目標を定めないことが多いからだ. 正確に言えば, 目的と手段の分離が極端に苦手であり手段そのものが目的となってしまうことが多いからだ.

この場合で言えば「人と違うところを探すこと」そのものが目的となっているのでそれが成し遂げられた後の事など考えられないと言うことである. 私を取り巻く環境は常に変化しているのだからそれに合わせて私も常に変化しなければならないのである. したがって私は固定的な目標を立てることそのものに懐疑的な立場なのである. 無論私にもやりたいことはきっとあるはずである. 例えば...寝ることとか音楽を聴くこととかですかね.

されど私はやりたいことと同じくらいやるべきことを行いたいのである. ちなみに「〜したい」などの願望表現や「〜すべきである」と言う当為表現が出てきた場合には, ほとんど全てにおいて「〜」が現状において為されていないと言うことには極めて敏感になった方が良いだろう. 例えば現に宇宙飛行士である人は決して「宇宙飛行士になりたい」などと言う表現は使わないだろうことからもそのことは明らかだろう.

3 目標とは妄想である

人は目標を掲げることがある. なぜなら自分にないものを求めているからだ. 人は現状維持を志向する性向と現状変化を志向する性向との両方を兼ね備えている生き物である. 現状維持と現状変化とを比べてどちらが難しいかについては私にはよくわからないのであるが, 一般的には現状維持の方が簡単であると言う認識が共有されているらしい. 私にはそれがよくわからないのであるが, それでも一般的に共有されているらしい認識らしいので私もその認識を知っておこう. ここで重要なことは認識を知ることと認識に従うこととは全く別位相の問題であると言うことである.

この認識を履き違えてしまうと建設的な議論はほとんどできなくなってしまうだろう. すなわち相手には相手の前提がありそれは自分とは決定的に異なるはずであるから, その違いに対する認識をすることが大切だからである. 必ずしもその認識に従う必要はないし, 正確に言えば, 相手の認識に従えるとするならばそれはもはや相手の認識ではなく自分の認識なのである. 無論私と私以外の人間は異なっているので自分の認識と相手の認識の完璧な一致を見ることなどは到底不可能なことであるということも私は重々承知しているのだが...

4 考える前に言葉は出てくるのだ

我々は言葉に意味を求める. されど重要なのは言葉そのものと意味そのものとは決定的に異なっていると言うことである. 詳しく言えば自分が言ったことと相手が理解したこととは決して同一であることはあり得ないと言うことである. 仮に自分の言いたいことが全く同一な形で相手に伝わるのだとしたら誤解など生じる余地はないのである.

ちなみに誤解とは「誤った解」であるが「解」である以上容易に変更することは不可能なのである. それが証拠に我々人間は自分の誤解を容易に解くことは困難であるし, 他人に抱かせてしまった誤解を解くことははるかに不可能に近いと言うことは, きっと普遍的な認識であるはずだ. 「きっと普遍的な認識であるはずだ」と言う表現を用いた時点で私はその認識が普遍的な認識であるかを疑っていると言うことを明らかにしてしまっているのである.

「人間は考える葦である」と述べた哲学者がいるがそれは対偶を取れば「考えないならば人間ではない」と言うことになるだろう. 論理学において重要なものとして対偶命題は元の命題と真偽が一致すると言うものがあるのだが, 「人間は考える葦である」と言う命題は真なのかそれとも偽なのかを確かめたければ「考えなければ人間ではない」と言う命題の真偽を確かめれば良いことになるのである. 私には「人間は考える葦である」と言う命題は真であるように思うのだが, 皆様はどのように思われますかな?

5 死ぬこと以外はプラスに考えられる

私はほとんど全てのことについてプラスに捉えることができるように訓練している. なぜなら世の中に絶望しているからだ. 逆にマイナス思考に陥りがちな方は得てして世の中に期待してしまっているからに違いないのである. 要するに自分の存在する座標軸を容易に行き来ないし移動できる人はプラス思考が可能になると言いたいのである. されど重要なことは自分の中に存在する座標軸を見失わないことである.

座標軸を行き来または移動するためには座標軸そのものが存在していなければならないのだから, その座標軸を見失うことは非常に大変辛いことなのだ. さらに言えば座標軸を複数持つことが極めて重要であるように思われる. なぜなら同じ事象だとしても座標軸が異なれば観測結果が異なる現象として理解され, ある座標軸でマイナスだとしても別の座標軸でプラスになることがほとんど全てであるからである. 私の現在の認識では死ぬこと以外は, 何らかの座標系においてはどんな事象であってもプラスのものとして観測されるはずである, ということを信じている.

6 人間観察が好きな私

私は人間観察が好きだ. なぜなら私以外の人間がどのようなことを考えているかを考えることによって私は自分とは何かという問いに対して答えを得ようとしているからだ. ところが私は人間観察をできていないのである. なぜなら人間観察を行なっている人間が私である以上, 私というレンズを通した他者, すなわち私のことしか結局のところ考えることができていないからである. つまり人間は他人のことを考えることは不可能なのである.

考えている自分そのものがいなければ他者を考えることは不可能であるし, 仮に他者が自分にとって考えることの可能な対象であるとすればそれはもはや他者ではなく自分であるからだ. だからこそ私は人間観察を止めることはできないのである. 人間観察など不可能であるからだ. 不可能なことだからやらないというのは決して当たり前のことではないのである. なぜなら人間は時に不可能なことを可能であると誤解して思いもよらない大惨事を引き起こしたがる生き物であるからだ. むしろ人間は不可能であることしか行なっていないとも言えるかもしれない.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?