人間失格

第一の手記 より

自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

変に共感してしまった部分・・・
自分も中学生の頃や高校生の頃、はたまた大学に入っても社会人になっても、「尊敬されかけて」いた。というより、聞かれると何でも答えていたのだから、誰かれ構わず色んなことを尋ねられる。尋ねられると答え、その答えに対する意見を聞き、時には付随情報も返ってくる。これを繰り返していると無限ループの如く様々な知識が蓄積されていく。求めなくても限りなく詰め込まれる感覚。無駄に記憶力が良く、逆に忘れるということも少なかったので、頭の中がいっぱいいっぱいになってしまう。
へたに記憶力が良いと、何か1つ忘れていることに気づくと、それに関連した内容も忘れていることに気づき、それが芋蔓式に「忘れている」という実感が増幅され、パニックに至る。忘れていることを意識してしまう、記憶の断片が欠落していく恐怖感は何よりも怖い。自分自身が崩落するような感覚。忘れていることを忘れているなら気づかないで済むのに。
「一を聞いて十を知る」ではなく「一を忘れて十の忘却を知る」だ。

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