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「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない (7/40)

お借りしてから、読みだすのに数か月もかかってしまった。

その本には、「ゆっくりおたのしみください」と書かれたメモがそえてあった。だから‥‥というわけではないけど、どんなことにもタイミングがあって‥‥「あなたのタイミングで、この本をひらいてね」というメッセージだと、解釈することにしたのだった。

読めば1時間もかからなかったこの本を読むのに、数か月の時間をいただけたことに感謝。
もし、わたしが誰かに本を貸すことがあったら、そんな言葉をそえようと誓った。

こころをわしづかみにされる書き出しだった。

 ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
 海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、真っ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
 そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。
  (「センス・オブ・ワンダー」レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳)

解釈はひとそれぞれだけど、この本「センス・オブ・ワンダー」のすべてを表しているように思う、書き出しだった。

誤解をおそれずに一言にまとめると、こんな内容の本だった。
こども時代から自然とのふれあいを通して「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を持ちつづけることが、人工的なものに囲まれたつまらない大人への処方箋であり、すばらしい人生を送る秘訣です。と。

夜の海だけでなく雨の森での体験、虫や鳥の声、漂ってくるにおい、ふかふかの苔‥‥五感をとおして自然を感じることのすばらしさがていねいに描かれていて、読みながらじぶん自身の自然体験も呼び起こされるようだった。
そして、できることなら、いますぐ自然のなかにとびこんでしまいたくなる本でもあった。

しかし、身近なところに大自然はなく、あったとしても行く時間もなく‥‥起きたら仕事、おわれば家にかえってダラダラして寝るだけみたいな生活をしていると、なおさら恋しくなるわけだった。

いつも出先から会社に戻る時間が18時から19時くらいになる。ちょっとした移動時間に大自然に行くわけにもいかず、通ったことがない路地をくねくねと通ってみることにしてみた。

ちょうど夕食どきという時間帯もあってか、焼き魚のにおいにすぐ気がついた。もうすこし行くと、カレーのにおい、なんとなくだけど煮物のにおいも路地にただよっていた。会社にもどる身にとってはなんとも切ないにおいだけど、こどもの頃のことを思い出した。「ただいま」と言うまえに、においで晩ごはんのメニューを大声で言ったこともあったなぁ、なんて。

次は、家いえからきこえてくる話し声が耳に入ってきた。内容はわからないけど、きこえてくる声、食器のカタカタなる音、ところによっては赤ちゃんの泣き声も‥‥、路地にはにおいだけではなく生活の音にもあふれていた。

「センス・オブ・ワンダー」を読んだ直後だったこともあり、ふだんなら通りすぎてしまうようなにおいや音を感じたおもいがけない路地裏探検になった。

そしておなじ日に、うれしい発見もあった。
さいきん、街灯がぜんぶLEDにかわっていってませんか? 
無機質なまぶしい白い光がなんとなくすきになれなくて、ずっと無意識にさがしていたものにも出会うことができた。ひとむかし前はあたりまえだった、あったかい色した街灯にも。

晩ごはんのにおいも、生活の音も、LEDじゃない街灯も、すべて自然ではなく、人の手によってつくりだされた人工物にほかならない。だけど、どこかなつかしく、自然にも似たあたたかさがあった。

レイチェル・カーソンが言うような自然の神秘さや不思議さがあったわけではないけれど、路地裏にまよいこんだあの日の体験は、ワンダーだった。

さらにその夜、ふとんにもぐりこんだときのことだった。大都会に住む人にも、世界中のどんな人にも、すぐそばに大自然があるという大発見をした。それは、じぶんの内側、じぶん自身のカラダこそが、もっとも身近な大自然だったんだと。

自然も人工もごちゃまぜで、これからも、マイ「センス・オブ・ワンダー」ブームはつづく。

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