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春はなんて優しくて残酷

私の家の最寄り駅に卒業生に向けた
メッセージボードが出現した。

毎年恒例のものなので今年も
「この時期が来たか」と思うぐらいだが
なんとなく私はそれを見ると
心の中に寂しさが生まれてしまう。

私にとって卒業があまりいい思い出では
ないからかもしれないが、
卒業式を迎えた若者たちを思うと
なんとなく寂しくなってしまうのだ。

考えてみると卒業とは偶然に出会い3~6年を
共に過ごした仲間たちと離れ離れになることである。

一般的に見れば卒業する人たちにとって
それは寂しいことなのであろう。

しかし私に生まれてくる寂しさは
彼らの寂しさを想像することで生まれるものではない。

私には学生時代何人もの友達がいた。

そんなに交友関係は広い方ではなかったが
いつも教室で顔を合わせれば話す友達であった。

だが、卒業を迎え彼らと離れ離れになっても
私はあまり寂しいという感情がなかった。

小学校の時は次に進む公立の中学校で
嫌でもほとんどの人と顔を合わせるので
何も寂しい気持ちは湧かなかったのだが、
不思議なことに中学校でも高校でも、
そして大学でも卒業に際して寂しいという気持ちが
全く私の中に湧いてこなかったのである。

今思い返してみても、なぜなのかわからない。

もしかすると友達と言えるほど私自身
彼らには腹を割って話せていなかったのかもしれない。

現に学生時代に仲が良かった友達で
いまだにつながっている人はほぼ皆無である。

Facebookなどでかろうじてつながっている人はいるが
その人たちとも数年間全くやり取りをしていない。

私自身それが寂しいことだとも思わないし、
自ら彼らと連絡をとってつながりたいとも思わない。

こうして学生時代の友人との関係を思い返すと
私自身がなんとなく感情のない生き物だったかのような
気がしてしまうことがある。

在学していた頃は間違いなく感情があったし、
大学時代などは友達の家に泊まって騒いだり
いろんな思い出を作ったはずなのだが、
どういうわけか私の記憶の中には
あまり思い出として残っていないのだ。

私はこうしてnoteでの発信を通して
自分を見る作業をしている。

自分の考えがなぜ生まれたのか、
自分はなぜそう感じたのかを掘り下げることで
自分という存在を文章という鏡に映して
見ようとしているのである。

そんな自分を見る作業において
いまだに学生時代の自分の姿が見えていない。

もしかすると、私が毎年卒業生に向けた
メッセージボードを見て感じる寂しさは、
どこかに置いてきてしまった私の学生時代に対する
寂しさなのかもしれない。

いつか学生時代の気持ちを思い出すときが
来るかもしれないし、一生思い出さないのかもしれない。

しかし、こうして掘り下げていくことで
いつかこのメッセージボードを見ても
何とも思わないときがくるのであろう。

The Yellow monkeyの「SO YOUNG」という曲の一説に
「春はなんて優しくて残酷」という言葉があるが、
この記事を書いていて私の頭の中に
このフレーズがグルグルと回り始めた。

当時の私はあまりにSO YOUNGだったのかもしれない。

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