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船長の指示を待つな

具体的な事は書けないが、
昨日職場でショッキングな人事が発表された。

親会社から来ていた人が交代になったのだ。

私が働く会社は外資系。
なので、このような事は決して珍しくはない。

成果を出せなかった経営陣が入れ替わることも
過去にあったし、
いわゆるリストラも過去には実施したことがある。

今回日本法人から立ち退かれることになった方は
数年前にやってこられた方で、
とても人当たりの良い、一言でいうと朗らかな方であった。

私はその人を人としてとても好感を持っていたのだが、
ビジネスの面ではその朗らかさが仇になったらしく、
環境の変化を捉えた舵取りができていないと
親会社に判断されたらしい。

実は私の周りにもこの人のことを悪く言う人が
何人かいた。

リーダーシップがまるでない。
会社をどう導くか方針が見えない
親会社の言いなり

このようなことを言い、
この人を批判する彼らに対して
私はずっと内心腹立たしい気持ちを抱えていた。

確かにこの人はリーダーシップがないし、
自らガンガン舵を切っていくタイプではない。

だが、それを批判している人たちは
自らは全く舵を切ろうとはしていないように
私には見えたのである。

もしこの批判をしている彼らが
現場のリーダークラスや係長クラスなら
理解できない訳ではない。

自分にはどうにもならないことに対して
何かを批判していたい気持ちは
誰にも起こるものである。

しかし、批判をしていた人たちは
決してそのようなクラスの人ではない。

自らがマネジメントに関わるクラスの
参謀クラスの人たちだったのだ。

これを船に例えてみるとどうだろう。

船が浅瀬を航行しているときに
嵐が起こる海域を進まねばならないとする。

その時に、嵐の様子を予測し、
今後どのようなことが起こるのかを
明確に船長に伝える役割が参謀であろう。

その上で船長は近くの港で停泊すべきか、
それとも嵐を迂回しつつ航行を続行すべきかを
判断するのである。

船長は肩書こそ船長であるものの、
過去の航行経験が浅い人なので
その判断には参謀の情報提供が重要になる。

にもかかわらず、参謀はそれなりの報告だけをして
「船長は何も判断しない」と嘆いているのである。

これでは”指示待ち族”とやっていることは
何ら変わらない。

それで参謀という役割についているのだから
指示待ち族よりもよほど質が悪いと言えるだろう。

無論、決断の結果で起こる事象の責任は
船長にある。

ならば、船長に自分が思うような選択を
取らせるようにしっかりと情報を与えればいいのである。

参謀にしてみれば自分は大きな責任を取らずに
思い切って進路に影響を与えることができる
大きなチャンスともいえる。

なぜなら参謀は船長と違い、船員としての長い経験が
あるからである。

にもかかわらず、参謀たちは船長が決断しないと嘆き、
結果船は嵐の中を航行することになった。

今の我々の状況はまさにそんな風に
私の目には映るのだ。

noteの記事を毎日書く中で私の心の中には
”当事者意識”という大きなキーワードが
横たわっていることを知った。

私はまだ参謀クラスにはなっていない。
あくまで参謀を補佐する立場である。

しかし、今回の人事異動に至らないために
私自身はもっとどうすることができたのかを
考えてしまうのだ。

船がいい方向に向かうために自分に何ができるのか。

乗組員全員が当事者意識を持たない限り、
船は決していい方向に向かって行かないであろう。

経験豊富で自らの判断でガンガンと突き進む
そんな船長を待っていたのではダメなのだ。

新しく着任された方がどのような人か
現時点で私はわかっていない。

しかし、その人がどんな人であれ、
船がいい方向に向かうために
自分はどうするべきなのか
そして組織はどうすべきなのかを考え、
それを行動に移すことしかできない。

今回の人事はショッキングであったが、
人を批判するだけで何の行動も起こさない
参謀たちを押しのけるぐらいの気持ちで臨めと
天が放ったメッセージだと私は解釈した。

自分にできる事は一体何なのか。

今日もそれを考えて進んでいこうと思う。

子供の頃、土曜日か日曜日の早朝に
テレビをつけると
カトリックの布教番組のオープニングで
「暗いと不平を言うよりもすすんで灯りをつけましょう」
という言葉が流れていたのが
いまだに印象に残っている。

私は別にキリスト教信者ではないが、
この言葉が私の根幹にはいつもあるような
気がしている。

暗いと不平を言うだけの人には
なりたくないものである。

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