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点と点との真ん中の線を記すかのごとく。

日々、ブログを書くなかでは、
いろいろなことを書きたいな、
とは思いながらも、でも、こういうのは
なるべく書かない、と、思っている物事もあって。
たとえば、って言って挙げようとすると
うまく言えないんだけれども。
それはさ、つまり、
じぶん自身の内面に関することよね。

じぶん自身の考えとか、思いとか、気持ちとか、
というのは書いている部分もあると思うですが、
それよりも、もっと内面へと踏み込みながら
ぼくの心の奥底を記す、ってえのは
やらないようにしていると思う。

じぶん自身の中の、いちばんの
プライバシー的な部分については、
記せない、みたいなことだとも思うけれども。
それはさ、やっぱり
恥ずかしさもあるし、また、
それを書いたからどうなのか?
って感じてしまう面もあるし、
そのことを書いてもたのしくなさそう、
とも思えたりもするから。

そういうのってば、でも、
以前、このnoteとは別のブログを書いていたときに
そういうのを記そうとして、
失敗、と申しあげますか、つまり、
他人を傷つけてしまったり、かつ、じぶん自身をも
傷つけるみたいになってしまったこともあったから、
というのが理由なのやもしらないけれど。
それからは、そういうのは
書かないようにしたい、と、
思うようになったんだと思われる。

先日読了いたしました星野源さんの著書
『いのちの車窓から 2』では、源さんが、
インターネットに「本音」を残そうとしてはいけない、
とのようにおっしゃっていて。
そのことばを読みながら、なんだか、
ぼくもちょっとわかるような気もして。。

 ネガティブな物事はさっぱり忘れたい。そうするには怒りや憤りを、頭や身体の中から出してしまえばいい。自分の中に蓄積する毒を、言葉と共に排泄し処分するのだ。他人に直接ぶつけてしまわないために。
 そこで一番やってはいけないのは、SNSやブログで「本音」をインターネットに残そうとすることである。
 他人が見る可能性のある場所では、人間はどうしても「表現」をしてしまう。そこに本音や本心を書くことはできない。「周りを気にせず、本音を書きました」そんなのは嘘だ。閲覧数やいいねの数、周りからどう思われるかをまったく気にせずに投稿できる人は100%いない。それは本音ではなく、本音風にデコレーションされた歪な表現でしかない。だからそんな場所では、言葉の排泄はできない。

星野源さん著『いのちの車窓から 2』208頁より

インターネットで何かを記せば、どうしても
着飾るようなことばになって、
そのことばというのは、いわば、
じぶん自身の「本音」の場所からは
すこし離れたかのような、つまり
「うそ」のようにもなってしまう、
ということなのでしょうか。
そして、さらには、そういうような
「うそ」によって、周りの人、及び、
じぶん自身をも傷つけたり、なおかつ、
混乱してしまう、というような?!

今、ぼくがブログで書こうとしている物事とは、
どちらかと言えば、じぶん自身の
外側のことだと思っているの。つまり、
じぶん自身の外側とじぶんとが
つながろうとする、と申しますか、
橋を架ける、と申しますか、
折り合いをつけようとする、と申しますか。
それは、たとえば、
じぶん自身の内側にある点と
じぶん自身の外側にある点から、
コンパスでふたつの円を描きながら、
点と点との真ん中の線
(垂直二等分線)を記すかのごとく。

その線の場所とは、
じぶん自身の「内」でもないし、かつ、
完全な「外」でもなくって、
そのような場所に立てたら、
というふうには思っているのよね。

‥‥みたいなことを考えながら
思い出していたのは、奥田民生さんの
『たったった』という歌なんだな。

真の姿は うたってないんだな
ねらっていたんだな
知っていたんだろ

たったった/奥田民生

ぼくだっても、
民生さんのように、そして、
源さんのように、
表現をできたらいいのにな。。。

 誰かと誰かの恋 なんでもうたう♪

 営みの 街が暮れたら色めき 風たちは運ぶわ♪

令和6年10月25日