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ほんとうの名前と支配と自然のこと。

宮﨑駿さん監督の映画作品集より、このたびはひさしぶりに
『千と千尋の神隠し』をあらためて鑑賞して、
やっぱり、すごい作品だなあ! って思いながら、
このブログでもね、いくつか、たとえば
千尋の両親のこと、千尋の行動やことばのこと、及び
物語の舞台となる油屋のシステムのこと、
などから考えられる感想を申していたのですが。
『千と千尋の神隠し』において、ぼくとしてはね、
いちばん疑問に思うのは、やっぱり
「名前」のことだなあ〜。

名前って、いったいなんだろう?

たとえば、『千と千尋の神隠し』では、千尋が
油屋で働くための契約を湯婆婆と結ぶ際、湯婆婆は
千尋の記した契約書の名前を眺めながら
【千尋と言うのかい?】と言うと、千尋も
【はい】と応えるのだけれども、その直後、湯婆婆が
【贅沢な名だね】と言いながら、契約書に記された名前の
「荻野千尋」の「千」以外の文字を魔法で剥ぎ取り
【今から、おまえの名前は千(せん)だ。
 いいかい、千だよ。わかったら返事をするんだ、千っ!】
とのように言われていた。そして、
その後のシーンでは、ハクが千に
【湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。】及び
【名を奪われると、帰り道がわからなくなるんだよ。
 私はどうしても思い出せないんだ。】
と説明をされていたように、湯婆婆は、名前を
魔法で変化させることによって相手を支配する。

名前というのは、たとえば、
子どもが生まれたときに親(保護者)が名付ける、
というその名が、その人の
ほんとうの名前になるとは思うけれども。
でも、そもそも人間は、いつのころから
名前をつけるようになったのだろう?
また、親が子どもに名前をつける、ということは、
それもまた、ある意味では、親による
支配的な意味を表すのだろうか?

千尋が「千」という名になった、
というのを考える場合にぱっと思いつくのは、
水商売に勤められる女性が仕事上で名乗る
本名とはちがう名前のことを
「源氏名」と呼ばれるけれども、なぜ、
そのような名前があるのか、もしくは、
芸能人には「芸名」、
文章を書く人には「ペンネーム」、
インターネット上では「ハンドルネーム」、さらには、
偽名とか、あだ名とか、略称とか、などなど、
本名とはちがう名前にもいろいろあり、それらの
名についての用途や理由もいろいろあるとも思うですが。

「名は体を表す」という語句もあるけれども、
つまり、名前とは
その人自身であり、なおかつ
名前によってその人が変化してゆく、
ということも考えられるやもしらない。
たとえば、ある人が
「ある名前だった場合の人生」と
「別の名前だった場合の人生」とでは、
人生がちがう、ということも起こりうる?!
それは、でも、ひとりひとつの名前なのだから
この名前だったらこういう人生で、
その名前だったらこういう人生で、
というのは比べられないから、
確認もできないけれど。。。

以下、『千と千尋の神隠し』の物語における
重要なねたばれを申しあげますが、
千尋及び千のことを折に触れて助けてくれたハクは
【私はどうしても思い出せないんだ。】
と、じぶん自身の名前を忘れてしまったと語っていたけれど、
後半のあるシーンにおいて、千が
子どものころの記憶を思いながら、かつて
千尋が溺れた「川」がハクなのだと思い当たり、
その川の名は「琥珀川」とハクに伝えると、ハクは
湯婆婆の魔法より解き放たれ、ハク自身のほんとうの名を
「ニギハヤミ コハクヌシ」なのだと思い出す。

「ニギハヤミ コハクヌシ」という名が、
どういうものなのか? ってゆうのも
ぼくにはぜんぜんわからないけれども。
今はもうマンションになって埋められた、と、千の言う
「琥珀川」という名の川は、もうすでに、川が
無くなってしまったことでその名前も奪われてしまった。
そのことを考えるとね、なんだか、
泣けそうになってしまうけれども。
このことはさ、いわば、人間が
自然に名前をつけて、そして
その名前を変化させてゆくことで、人間が
自然を支配する、という解釈もできるのかなあ。
でも、そういうような、
名前とはなんなのか? というのは、
ぼくはよくわからないながらに、でも、
名前はとてもとても大事なものだなあ、って、
『千と千尋の神隠し』を観て思うのよね。

名前について思うとすれば、ラストシーンでは、
千尋が湯婆婆の姉・銭婆に呼んでいた
「おばあちゃん」という呼び方を、
湯婆婆に対しても言われていたのは、
ほんとうにすごい! と感じました。
つまり、千尋は、湯婆婆のことを
「おばあちゃん」と呼ぶことによって、逆に、千尋が
湯婆婆を支配してしまった、とも解釈できると思えるから。

呼んでいる 胸のどこか奥で♪

令和6年8月22日