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「考え過ぎ」を越えて。

ぼくはどうしても頭の中で考えてしまうほうで、
そんな「考える」とは言っても、たとえば、
すばらしいアイディアを考えるとかではなくって、
かつてのイヤだったこととか、
かつての憎しみだとか恨みだとか嫉みだとか、
かつてしてしまったもしくはしなかった後悔だとか、
そのようなことをうじうじと悩むようにして、
いつも、いつまでも、考えちゃう。

そんな考えるたちだから、ぼくも
「考え過ぎ」と言われることもあるのですが。
自戒を込めて言うとすれば、
「考え過ぎ」というのは、やはり、
良くないことだと考えている。
とは言えども、ならば、
どうしたら良いものか?

「考え過ぎ」と言われることもあるぼくが
「考え過ぎ」のことを考えるとするならば、
「考え過ぎ」というのは、「考える」ことを
「やり過ぎている」という意味じゃあない。
つまり、ことば的には
考える「量」について言っているように見えても、
それは、じつは分量ではなくって、
考える「質」のことを言われているんではないか?!

つまりはさ、たとえば、
「それは考え過ぎだよ。」と言われた場合には
「考える量」が「多過ぎる」んではなくて、
その考えが、間違っている、とか、
おもしろくない、とか、つまらない、とか、
論理が破綻している、とか、
理論が屈折している、とか、
こわいとか、やばいとか、心配だとか、つまり、
「その考えの質」が良くないふうになっている。
けれども、そのときに
「それはあなたの考えが良くない。」
と言えばあまりにも角が立つので、
「それは考え過ぎだよ。」のようにして、
オブラートに包むかのごとくおっしゃっている。
そのようなことを言われた場合、ぼくは
仮にそう解釈しているんだけれども。

こういうふうに思う理由としてはね、
やっぱり、ときには
「考える」ことが大事だと考えるからだ。

たとえば、それこそ、
すばらしいアイディアを考えるときとか、
むつかしいことを理解しようとするときとか、
困難なことにチャレンジするようなときとか、
そういう場面では、
考えることが大切だと思う。
ほんのちょっと考えただけで、
それらが達成できる、とは限らない。
そういうときには、
考えるは考えるけど、でも、ちょうど
「考え過ぎ」には届かないぐらいの量で考える、
というような「考える」で、
本当の本当に「考える」ことができるのか?!

昨日のブログの中で申しました
糸井重里さん・ほぼ日刊イトイ新聞著の書籍
『できることをしよう。ぼくらが震災後に考えたこと』収録の
糸井さんのロングインタビューでは、
【大人が真剣に何かをやろうとして
積み木を積むときには順序があるんですよ。
それは、頭から血が出るほど考えるとわかるんです。】
(新潮文庫、471頁より引用です。)
とも言われていたですが。つまり、糸井さんのおっしゃる
【頭から血が出るほど考える】とは、
「考え過ぎ」の状態よりもさらに考えている、というか。
つまり、「考え過ぎ」を越えた
「考える」というものがあって、
そこまで考えなければ、わからないことがある。

ぼくとかは、こう
考えてしまうたちではありながらも、
きちんと考えるのは苦手と申しますか、
考えるとは、非常に
むつかしいことだとは感じているのですが。
でも、そんなような、いわば
「考え過ぎ」を越える「考える」をできたら。。。

あともうひとつじぶんなりの自戒で言うとすれば、
考えている状態のじぶんの姿を、
他人に見せないほうがよい。
つまり、考えている姿をね、
他人へと見せるからこそ、その人も
「考え過ぎだよ。」と言ってしまう。
言い替えるならば、考える側の人が相手に
「考え過ぎだよ。」と言わせてしまっている。

だから、考えている素振りというのは
なるべく他人には見せなくって、
逆に、なんにも考えてないような
のほほんな感じの姿を見せられたら、
「考え過ぎだよ。」とも言われないから。

ってゆうようなこともねえ、おそらくは
「考え過ぎ」だと思われるやもしらないけれど、
ぼくはこんなことを考えてみたんだった。

令和5年10月7日

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