電話が存在していなければ。
スマートフォンというのは、
とっても便利だ。
いつでも、どこでも、
連絡もできるし、ネットも見られる。
かと言いながら、その便利さの裏には
いつでも、どこでも、
スマホを見てしまう、というような、いわゆる
スマホ依存の問題も生じてしまうから。
現代人にとって、じぶん自身と
スマホとの付き合い方を考える、
ってゆうのも大切だと思われる。
とは言いつつ、スマホを
害悪としてもしょうがない、と申しますか。
いわば、そういうような依存の問題とは
スマホ以前でも存在していたと思うのよね。
ぼくは昭和57年の早生まれで、世間的に
携帯電話が普及し始めたのはぼくが中学生ごろかなあ、
そして、ぼく自身がケータイを持つようになったのは
高校二年生のときだったですが。
当時はさ、ケータイでネットも見られないし、
メールも同じキャリア同士でしかできなかったし、
そもそもの機能自体が少なかったけど、それでも
ケータイの画面ばっかり見て過ごしていたと思う。
そして数年後、ガラケーと呼ばれるような
折りたたみ型の携帯電話が登場してからは、その
依存的な状態はもっと進んでいたように思うの。
なので、ぼくが感じるには
スマホが悪いわけではなくて、悪いのは
電話を携帯できる「携帯電話」より始まっていた?!
いや、そもそもを言うならば
「電話」という技術が発明された時点から、
なにかはスタートしていたやもしらない。
それらは、つまり、
良くも、悪くも、だと思うけれども。
たとえば、遠くに居る相手と
直接、会話ができる、もしくは
メールやインターネットでことばのやり取りができる、
というのは、人類史上における
大きな発明だったと考えられる。
たとえば、電話にまつわる物語で挙げるとするならば
村上春樹さんの長編小説『1Q84』では、架空の
1984年の世界が舞台とされているのですが、
その当時はスマホもネットもなくて、
登場人物同士のやり取りは、固定電話、及び
公衆電話が主になっている。
ここで、もしも、スマホが登場していたら
物語はまるっきり変わってきてしまうだろうし、
そして、でも、逆に
電話が存在していなければ、それもまた
物語はまるっきり変わってきてしまっただろう。
このごろのブログでは、あらためて鑑賞いたしました
『となりのトトロ』の感想を申していたですが。
『トトロ』の物語もまた、昭和30年代という
スマホも携帯電話もネットも無い時代のお話しであり、
電話は各家庭に普及されておらず、
お母さんが入院する病院より電報を受け取ったサツキは、
本家のおうちで電話を借り、そして
交換手を介して父親の研究室へ連絡して、
その旨を無事に父へと伝えられた。
ここでもまた、その世界にスマホが存在していたら
物語は大きく変わってきてしまうだろうし、
はたまた、けれども、電話があったからこそ
コミュニケーションの問題も起きてしまった、
とも考えられる。。。
ぼくの記憶のなかでは、たとえば
「iPhone」がストーリーで初めて登場した作品は、
平成22年放映のドラマ『モテキ』だと思っているですが、
でも、ドラマのストーリーの中で
スマホが登場したとしても人間同士の
コミュニケーションの問題は、
ぜんぜん解決もされていないとも思えるし、
さらに言うならば、そのトラブルはむしろ
さらに深まっていた感もある。
そして、また、
平成28年公開の映画『君の名は』では、
スマートフォンはさらに世界に浸透していて、
ともすれば、それだけ、問題も
複雑に成っていたようにも感じられる。
電話というものが、いつごろ、世界で
普及したようになったのかは存じないですが、
たとえば、太平洋戦争の戦時中でも
無線通信によって味方同士のやり取りが行われていて、
そして、そのやり取りは敵側に傍受されていた、
というお話しも聞くけれども。
無線の交信によって、戦争における
作戦が遂行されてゆく、それはつまり
相手との「連絡手段」が重要と言うよりかは、
その連絡手段を用いて介される
「ことば」が重要であり、
そのことばによって、よいこともあれば、
いろいろな問題だっても引き起こされてゆく。
そう考えれば、
スマホでも、ガラケーでも、固定電話でも、無線通信でも、
ネットでも、LINEでも、メールでも、電報でも、手紙でも、
及び、面と向かって行う会話や対話でも、
すべておんなじやもしらないか。
相手のことばが、
電波に乗り、紙に乗り、空気に乗り、
ぼくのもとへと届いたとき、
ぼくは何を思うんだろう?
令和6年7月30日