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深さと浅さ。(秘密の扉より地下二階へと。)

ぼくは、以前のころには、なにか
深いことを考えたい、とか、
深いことをじぶんのブログでも記したい!
みたいなことを考えてもいたですが、
今はもう、あんまり、そういう
深いことを書きたい的なことは考えてないかな。

考えの深さ、または、表現の深さ、って
一種の価値になるとも思うのですが、
同時にむつかしさも増えてゆくだろうし、
さらにぼくの場合はさ、そのむつかしさに
ぼく自身が着いてゆけない場合もあるから。
つまり、深さを追求すればするほど
じぶんがその深さの沼にしずんでしまう、というか。
だからもう、今、ぼくが思うのは
じぶん自身の身体で行ける範囲の中で、
極端に言うとしたら、なるべく
浅く居られたらとも思うのよね。

そんな「深さ」について考えるときに
ぼくが思い出すのは、村上春樹さんの仰っていた
「地下二階」のことです。

それはたとえば、人間を「家」と見立てて、
一階が生活のフロア、
二階は寝室やプライベートのフロア、そして
地下階はものをストックしたりするような
すこし奥まった空間。しかし、その
地下階には隠れた別の空間が存在している。
その空間へ入るのはむつかしくて、
簡単には見つからない秘密の扉より入ってゆくことになる。
そこが、つまり「地下二階」であり、
この階で体験したようなことを描くことが、
いわば、物語である。

【参考文献】
・村上春樹さん著
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
 村上春樹インタビュー集 1997-2011』文春文庫、164頁〜
・川上未映子さん・村上春樹さん共著
『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社、92頁〜

村上さんは、そのような
「地下二階」というメタファーによって
「物語」について説明なされていたとぞんじますが。
でも、この「地下二階」という空間は
「深い」と言えば深いんだけれども、
その「深い」ということばとは
またちがった深さなのではないか?
とも解釈できそう、と申しますか。

つまりはさ、たとえば、
闇雲に深さを追求したりするのではなく、はたまた
ボーリングの掘削機で深く掘ろうとするのでもなく、
「家」という建物があって、その中で
じぶん自身の足で地下階へ降りてゆき、
そこで見つけた秘密の扉をじぶん自身の手で開くこと。
このことは、つまり
物事の「深さ」の話しではなくて、
建物の「構造」の話しなのではないか?
いわば、じぶん自身の
「深さ」を求めることじゃあなくって、
じぶん自身の「構造」をしっかりすることによって、
「地下二階」の空間へも到達できるようになるやもしらない。

と、そういうふうに考えるとすれば、
大事なのは、浅いところで
じぶん自身がしっかりと過ごすこと、つまり
じぶんという人間の「構造」を作ってゆくこと。
そして、もしも仮に
じぶん自身の「地下二階」へといざなう秘密の扉を
見つけられて、その中へ入ることができたとしても
ちゃんと浅い地上へと戻って来られること。

そう思えば、
浅いことが大切、と申しますか、
浅さをバカにできないというか、
ぼくはもういっそのこと、
浅くありたいんだぜ。

令和5年12月27日

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