勝ち負けについて

私は争いごとが嫌いだ。理由は負けるのが嫌だから、それだけのことである。負けると悔しいということではなくて、自己肯定感がかなり下がってしまう。自分はあいつより劣っているダメなやつだ、というふうに。たとえ勝ったとして、自分があいつより優れている、と思えれば幸せなのかといえば、そうでもない。なぜなら、その相手の自己肯定感が下がると考えると、自分のしたことがとても悪いことに感じるから。勝ち負けがつくのは気持ちが悪いことだ。

なぜこのような思想を持つに至ったか。元凶は学校教育である。学校は成績至上主義だ。テストの点数さえ良ければ褒められる。勉強以外の他のことがよくできても、あんまり褒められない。学業成績の位置づけの高さは本当に異常だと思う。

自分ははっきり言って、他の人よりもいわゆる「お勉強」はよくできる。もの覚えも良いし、理解も速い。だから小さい頃から先生にはよく褒められた。そして自分は勘違いしてしまった。自分は「人として偉い」のだ、と。

実際そんなことがあろうか。「お勉強」ができれば、「人として偉い」のか。テストの点数が1点でも高ければ、順位がひとつでも上ならば、人は人の上に立つことができるのだろうか。否、私は「お勉強」において優れた成績を残しているだけなのであった。それは人間としての勝利ではないし、さらに言えば「学問」における勝利でもなかったのだ。

私がそのことに気づいたのはあまりにも遅かった。ある日私は「お勉強」における敗北を経験した。この敗北は当時の私には「人間としての敗北」のように映った。私は私の人格を全面的に否定するに至った。そのようであると、敗北を原動力にして、次に向けて頑張ろう、という気にもならない。言うまでもなく私の自己肯定感は劇的に低下した。

負けるのが嫌だと書いたが、それは自分の中で敗北が全人格の否定につながってしまうからである。私はまだこの思考回路を完全に改めるには至っていない。だから今は勝負そのものが嫌いだ。もっとも、これは学校教育が成績至上主義であったことと無関係ではないと思っている。成績が良ければ全知全能であるわけではない。学校教育においてだけではなく、勝負事の際にはこのことに留意されたい。例えば、お金持ちだとか、歌がうまいとか、そんなことだけで人としての価値が高いといえるわけではないのだ。

そもそも、人としての価値など、簡単には決められるはずがない。何ぴとも、いつ、どんなことですばらしいことを成し遂げるかなんて、本来は絶対に予測できないのだから。


余談―オリンピックを観戦して

余談になるが、オリンピックを見ていて思ったことを書きたい。オリンピックに出場するアスリートの多くは、メダル獲得を懸けて争っている。自分にはそんなことはできないが、そのこと自体を否定する気はまったくない。だが、違和感を感じるのは、報道を含めた見る者の視線である。

新聞やネットニュースを見ていると、選手たちのメダル獲得はやはり大きな話題となる。努力の結果が形となるのはとても喜ばしいことだ。選手の喜びを見ていると、私も幸せな気分になる。

しかし、スポーツにおいて、勝利することだけが価値なのであろうか。オリンピックではそれはメダルそしてその色という形で表れるが、それだけに価値を置いて良いのだろうか。オリンピックでメダルが獲得できれば評価に値する、といったような視点で、競技を見ているような人はいないだろうか。どんなに選手たちがオリンピックに懸けて努力を重ねてきたとしても、それはそれぞれの人生の一つの点に過ぎない。応援する者として結果に一喜一憂するのは大いに結構だが、その結果だけを見て選手たちの全てをわかったような態度になるのは、あまりにも失礼であり、真実とはかけ離れているのではないだろうか。

もちろん、選手たちにとって結果を出すことは非常に重要であるかもしれない。だが、応援する者としては、その結果だけに気を取られるのではなく、冷静に、本当の意味で選手のことを見つめ、そのすべてを尊重したいのである。

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