SNSという罠

TwitterだとかInstagramといったSNSは、しばしば「手軽な」という言葉で形容される。たしかに、少しの間なんとなく眺めているだけで、膨大な情報をキャッチすることができるし、自分から発信した際には、「いいね!」という極めて単純化された形式で他者からの反応を得ることができる。他にもSNSを利用するメリットはたくさんあるだろうが、本稿ではそのSNSの「手軽さ」について、考えを述べていきたい。


SNS映えについて

「映え」という言葉があり、「ばえ」と読む。SNSをやっている人なら一度は耳にしたことがあるだろう。よく使われるのは「インスタ映え」という言葉だ。「インスタ」とは写真を投稿するSNS「Instagram」の略であるが、「インスタ映え」する投稿というのは、人目を引くような、カラフルな食べ物やアートを写した写真のことを言う。

いわゆる「インスタ映え」する写真というのは、なるほど色彩的な美しさをたしかに備えている。私もInstagramを閲覧していて、カラフルであったり、刺激的な色合いの投稿が目に入ると、それを注目して見てみようという気になる。そして不思議なことに、いつの間にかその投稿に夢中になっているのだ。注目を引くような写真になっているだけでなく、閲覧者をワクワクさせる、そんな投稿が「インスタ映え」する投稿と言えるだろう。

繰り返しになるが、「インスタ映え」するような投稿というのは、たしかに写真としての一つの価値を持っている。現にそういった投稿は、閲覧者からの「いいね!」を集めやすいとされる。

また、Twitterにおいても「映え」という概念は存在すると私は思う。ダ・ダ・恐山氏は、過去の自身の投稿で、Twitter上でバズりやすい文章の書き方があることを指摘している。Twitterには140字という字数制限があるため、いかにその縛りの中で内容を伝えることができるか、あるいは閲覧者の「笑い」をとれるか、そんなところが大事になってくるから、「バズりやすい文章の書き方」が形成されていくことも自然のように感じる。140字以内の短文、あるいは言葉で閲覧者の笑いをとったり、共感を得たりするというのはやはり立派な能力、技術であると思う。

ここまで、Instagram、Twitterのそれぞれで「バズりやすい」投稿の仕方があるということを示唆してきた。そしてそういった投稿はたしかに一つの価値を備えていると感じる。

しかし、SNSというのは、「手軽な」コンテンツだ。閲覧者はどのように投稿を見ているか。おそらく、多くの人が、上から下、あるいは下から上に、連続してスワイプしつつ、ふと目にとまった投稿に関しては少し時間をかけて見てみる、このような感じではないだろうか。そしてその投稿に関してなんらかの感想を抱いた後、またスワイプを始め、気になった投稿があればまた見てみる。この繰り返しである。


短時間で摂取できるもの

SNSを「手軽に」感じる要因の一つとして、意気込む必要がない、というのがあるのではないかと思う。例えば、ある純文学作品の読書を始めるとき、その分量の多さから、少しばかりの緊張を覚えるものである。しかしSNSにはそれがない。多くの情報は数秒で読み取ることができるし、読み取れない情報は見なければ良い。逆に言えば、数秒で読み取ることができる投稿に関しては、バズる可能性があるが、読むのに時間がかかる投稿については、なかなかバズることはない。仮に小説一冊サイズの文章がSNS上に投稿されたとして、それに目をとめる者は非常に少ないだろう。

現代人は忙しいから、「手軽さ」は結構大事だ。だけど、SNSレベルの手軽なもの、それだけを摂取するので果たして事足りるだろうか?

最近では、SNSを小学生や中学生の年齢から始める子どもも多いと聞く。そういった子どもたちは、SNS上での価値にとらわれやすいだろう。「SNSでバズることは偉いことだ」そんなように考えている子どもも少なくないはずだ。

しかし、SNSでバズるものというのは、あくまで「手軽な」投稿である。そこだけに価値をおいた考え方をもつ子どもは、健康に育つことができるだろうか。


深い感動体験

余談になるが、私は合唱が好きだ。だから演奏会にも度々足を運ぶ。私自身、発達障害の傾向があり、会場でジッと座り、演奏に耳を傾けるのは容易なことではない。しかし、よく響くホールで質の高い演奏を聞いている時間は至福そのものである。時に人目を憚らず涙することさえあるものだ。「あの感動があるからこそ今の自分がいる」と思えるような演奏会だって思い浮かぶほどである。

しかし合唱は、SNSでは決してバズらない。SNS上で鑑賞するには、一曲はあまりにも長い。それに加えて、特に珍しいものでもないし、他の楽器にようにインパクトの強いものでもない。SNSで目を引くための要素がまるで揃っていないのである。

それでも合唱で得られる感動には価値がある。あるいは私という人間を私たらしめているように。

私は偶然、合唱に感動する素質があったようだが、他の芸術でも、趣味のことでも、それはSNSでバズることはあまりないけれど、人間を感動させたり、形成してしまったりするものというのは人間の数ぶん存在するだろうと思う。

私の話に戻るが、私が「いいね!至上主義」に毒されていたとしたら、合唱にここまで深く感動することはなかっただろうと思う。それどころか、私は「手軽さ」をベースに創作されたものだけを見て、「手軽な」感動体験をするにとどまっていたのではないだろうか。

SNS上で体験できることは、幅が狭すぎる。SNSとは、時間的にも空間的にも縛られたものだ。もちろんそこから自由に興味を伸ばしていくことはできるが、「いいね!」が数で示される以上は、そう言った思考に自分から辿り着くのは難しい。


ちなみに——ルッキズムについて


最近のSNSには、どうも「バズる顔」とそうでない顔とがある気がする。

もっとも、顔には美しいと感じるものとそうは感じないものとがあることは否定しない。しかし、その美しさももはや、「SNSでバズるかどうか」が基準になってはいないか。

SNSでバズるものが、本当の美しさを備えたものなのだろうか。そもそも、本当の美しさなど、SNSを通して伝えることはできるのか。


整形したいと嘆くより前に、美しさとは何かを考えてほしい。その先で、SNS的な価値観にとらわれすぎている自分を発見するだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?