忘れられない本の行方


 本を読んでいると、いつも一人の男が脳裏にチラつく。チラつくだけならいいが、一度彼の存在を思い出してしまうと、こびりついてなかなか離れてくれない。クライマックスのシーンでこの仕打ちは酷いものだが、これは、私のせせこましい性根のせいでもあるのだ。 

「これ、コルビジェと同じ眼鏡なんだ」と自分のかけているメガネを恥ずかし嬉しそうに話す男だった。細身で身長もしっかりあるのに、何故かスタイルが悪い、なんとも言えない見た目。安っぽいジーンズに大衆的なパーカー(夏場はよくわからないデザインのTシャツ 彼曰く父親から譲り受けたスペインのTシャツらしい)が彼の一張羅。おしゃれで都会的な私にはまるで似合わない男だった。
 彼とは大学生のころ出会った。訳あって大学に友達のいなかった私は、縋るようにそのダサい男と友人になり、ひととき、恋をした。燃えるようなキスはしない代わりに、よく本を貸しあった。
彼は伊坂幸太郎が好きで、特に『ゴールデンスランバー』を読んで読書に傾倒するようになったと言っていた。その他に、村上春樹の『ノルウェイの森』や誰が書いたかは知らないが『イエローサブマリン』という本が好きだと言っていた。そのくせに、ビートルズはあまり好きじゃないというのだから、今思っても気味が悪いラインナップだ。
 残念なことに、彼は、それらのお気に入りの本は貸してくれなかった。私がいくらせがんでも「実家に置いてきちゃったから、」の一点張りで、あまり取り合ってくれなかった。その代わり貸してくれたのは、『地球人間』や『火花』。それまで文庫本ばかり読んでいたので、新書は本の大きさが手に馴染まなくて、違和感があった。
 一方私は、何を貸したのか、よく覚えていない。彼もきっと何を借りたかなんてのは覚えていないはずだ。私が本を貸しても、なかなか返ってこなかったし、返ってきたと思えば、貸した時と同じくらい綺麗な袋に入った本を「面白かったよ」と返してくる。袋から取り出し中を見ると、栞の位置は変わっておらず、依然として私が好きなシーンが広がっているだけ。

 今思えば、私と彼の関係は初めから破綻していた。
彼と私はまるで違う人間で、違う感性を、私たちはお互いに知ろうとはしなかった。そして教え合おうとも思わなかった。ただ、私たちが「ふたりの関係」を続けていたのは、彼のつまらない優しさが意地っ張りな私を引き留めていたからだったと思う。
失礼、今のは抽象的で難しい言い方だったかもしれないので、(気取りすぎてしまったので)少し分かり易く伝えようと思う。そう、そうだ、例えるなら、キャッチボールだけが続いてしまった状態に近い。ボールが取れても取れなくても、私たちはお構いなしにボールを投げ続けていて、どちらかが「やめよう」というのをただ待っていた、というような、そんな感じ。
 そういうわけで、彼と知り合ってから幾年かが経ったクリスマスの日、私は最後に彼に一冊本を渡した。大学3年生の冬だった。コロナ禍ということもあり、きっともう大学には片手で数える程度しか行かないことをわかっていて、彼に本を渡した。
その本は向田邦子のエッセイ集で『夜中の薔薇』という本だった。向田邦子の少し意固地なところや妙に気取ってしまうところが、さながら自分を見ているようだったし、恥ずかしげもなく、これはまさに私の本です!と声を大にして公言できるくらいお気に入りな本だった。
だからだと思う、私はその本を彼に持っておいてほしかった。何年か経った頃、返し忘れてしまった本を見つめて、私のことを思い出してほしかった。それは、ヘンテコな「ふたりの関係」を続けた、私の最後の一投だったのかもしれない。 


 ところで、あの本は、まだ読まれていないのだろうか。古本屋にでも売られたのだろうか、はたまた引っ越しの時に捨てられたのだろうか。あの本の行方はわからない。お気に入りの本、さながら自分のことが書いてある本、それは彼に届いたのだろうか。
届かなくても仕方がないことはわかっていながら、本を読んでいると、いつも思い出してしまう。人に渡した物の行方が気になるなんてのは、恋人との別れ際にあげたプレゼントを返してほしいと言っているようで、少しせせこましさがある気がする。「あげる」つもりで渡したものなら、その先の未来を考えることは不躾だということも分かってる。でも、私はあの本の行方が気になって仕方がない。本を読むたびに、私は自分のせせこましさと闘いながら、あの本の行方を、彼が私を思い出してくれたのかを、いつも気にしている。

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