震災の記憶

大雪の朝。車でいつもの道を走っていると、道の両側に連なる一面灰色がかった景色に、震災のときの記憶が重なった。全く違う場所だし、もちろん瓦礫なんてひとつもないのだが、あのとき目の当たりにし脳裏に焼き付いた、瓦礫の街並みの映像が浮かぶ。こういうことが時々起こる。震災の記憶以外にも、9.11のニュース映像から、交通事故の現場、漫画に出てくる残虐な場面が想起されることもある。これはなんという現象なのだろう?フラッシュバックとはおそらく違う。鮮明さがない。動きや音や感情は伴わない。写真みたいに切り取られ、とても静かだ。

震災があったとき仙台に住んでいた私は、大きな揺れを体験しながらも、周りで騒がれるほどには強い感情を体験したわけではなかった。心が振り切れないように情緒にブレーキがかかったのだろうか。そして数年経った今になって、色や形が似通った景色に記憶を重ね合わせながら、あのときの衝撃を吸収しているのだろうか。あの日の景色はきっと、自分に馴染むものではないと思う。当たり前のものがあまりにたくさん崩れ、壊れた。それでも心は、自分の身に起こったことを受け入れようとする。

大人になっても、理解が追いつかず飲み込めない状況や、気持ちの置きどころがわからない出来事があるなんて、子どもの頃には想像もしなかった。大人は、混乱を知らんぷりしたり、もしかしたら本当に、自身の感情に気づかなかったりもする。そして生じた歪みを抱えて、そうと気づかないうちに蝕まれ、そうと気づかないうちに取り込みながら、日々を暮らしていくのだろう。


#日記 #エッセイ #震災 #記憶

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