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ブックレビュー:小松由佳『人間の土地へ』

想像力の限界はすぐに訪れる。

 辺見庸の『もの食う人びと』を読んだときにも思ったが、やはり僕の想像力なんてまったく当てにならない。
 僕の常識は違う国や人々のあいだでは非常識であったり、逆に僕の非常識が常識であったりする。もちろん、一般論としてそうであることは分かっているが、具体的な事物のギャップを知ると、「正しさ」っていうのは曖昧なものだとあらためて思った。
 小松由佳の『人間の土地へ』も、身を投げ出して挑んだK2への登頂とシリアでの日常、そして夫との在り方を通して、僕の当たり前がいかに偏っていたかを問いただしてくれた。
 地球はひとつだが、”人々を取り巻く世界”は人の数だけ、国の数だけ、宗教の数だけ、複合的に無数にあるのだと思った。

賄賂と女性

いくつも印象に残った場面があったが、そのなかでも2つ取り上げようと思う。

ひとつは「賄賂」

軍隊生活にも賄賂が不可欠なのは、シリアでは常識だ。賄賂が渡せないと上官は便宜を図らない。便宜とは休暇や日々の食事、訓練に至るまで、およそ軍隊生活の全てに適応される。避けては通れない兵役を快適に過ごす唯一の方法は、賄賂によって上官の機嫌をとることだった。つまり金の力がどこまでもものを言うのだ。前述の警察にとどまらず、行政も軍隊も一般企業も学校も、およそシリアでは全ての場でこうした賄賂がまかり通っていた。

『人間の土地へ』p125 小松由佳

日本では汚職の象徴ともいえる賄賂だが、シリアでは社会の潤滑油として日常生活に賄賂がまかり通っている。まるでチップを渡すくらいの感覚だなと思ったが、難民のシリア人は賄賂社会がアサド政権の問題のひとつだと認識しているようだ。
それでも、賄賂を渡してしまうのは、そうでもしないと生き抜くことができない社会だからかもしれない。
 だまし合いと言えば言い過ぎだが、信用という言葉が遠く感じられるほど外と内の顔を持っているように感じる。外面と腹の内は全くの別物だ。「敵の敵は味方」という言葉があるが、もし僕がシリアに住んだら「敵の敵も敵」のように人々を見てしまうかもしれない。
一筋縄では生きられない社会にあっては手段を選んではいられない。ただなされるままに従って、受け入れて生きるのではなく、良くも悪くも賢く生きなければ、この土地で暮らしていけないのだろう。
 賄賂が当たり前と認識されている以上、誰もが暗黙の了解としての手段になってしまっているから、問題であるという認識があっても賄賂社会を脱するのは簡単ではなさそうだと思う。

ふたつめはムスリム女性の立場について。
宗派にもよると思うが、女性は守られる存在であるとされている。
シリア人男性の語った持論が書かれた箇所を引用する。

「女性は社会や家族に守られるべき存在だ」。女性は子を産み育て、家庭を守ることが大切な役割で、そのために男性の庇護下でこそ役割を全うできる。だから、自立することは重要ではない。男性と同等に働くのではなく、女にしかできない役割を果たすべきだ。
「男性には子供を産むことはできないし、家庭を優しく守ることもできない。それぞれの役割を果たすことが、良い家族や社会を作るはずだ」。

『人間の土地へ』p59

さらに、
”欧米や日本の女性たちが自立を求められ、外で働かねばならず、とても疲れていてかわいそうだ”と続けた、と書かれている。

ここでのムスリム女性たちは、美しさの象徴とされる髪をヒジャーブで覆い、夫以外の男性に見せなかったり、身だしなみとして、肌や身体のラインが出ない服を着るべきとされている。
また多くの時間を自宅のある敷地内で過ごし、買い物や友人に会うことも稀であるという。
女性は洗濯や料理、子供の世話など家の中のあらゆる仕事をこなしながら、共に暮らす家族や親類の女性たちとおしゃべりをしたり、昼寝をして過ごしているようだ。
女性である著者はこのようなムスリム女性の過ごしかたには三日で我慢の限界に達してしまったと述懐している。
しかし、当の本人たちは僕たちからすれば一見「束縛」のようにも思える見方を奇妙に思っているようで、束縛と思われることにむしろ不満すら感じているらしい。

日本ではここ数年の傾向からすれば、あからさまな男尊女卑に受け取られる。このようなムスリム女性のあり方を賛辞すれば、たちまち炎上してしまうかもしれない。
ただ、僕が思ったことは、もちろんこのようなムスリム的な考え方を「正しい」とは言えないが、じゃ、自立することや働くことが求められる社会が正しいのかはわからない。
ムスリム的社会であっても、日本や欧米的な男女関係なく自立が促される社会であっても、そうあることが家族や社会にとって最善であると考えられているのだろう。だから人々にそれぞれのあるべき姿を促すのではないだろうか。
しかし、「促す」という言葉を言い換えれば、どのような宗教であっても、社会であっても、個人の見地からすればあるべき姿の型にはめ込まれているのではないだろうか。中身が異なるだけで構造的には同じようなものなのではないだろうか。

絶対的な正しい価値観はないのではないか。

より良い社会や家族像を目指すという目的は同じだが、そこへのアプローチの仕方に様々な考え方があるのではないかと思う。
イスラム教では、女性が夫や家族に尽くすことで、社会や家族がより良く回ると考えられているのだろう。権力者たちによる思惑もあると思う。だから、女性の自立を促したり、イスラム教的なアプローチが崩れてしまうようなTVなどによる情報は入ってきにくいのではないだろうか。
当の女性たちは様々な選択肢が目の前にあって、その中から家を守り夫と家族に尽くすことを選んでいるわけではなく、それ以外の選択肢を知らないため、疑問の余地のない当然の役割という認識からにすぎなのではないだろうか。もし女性だけでなくムスリムが現状に不満を抱いているなかで、日本や欧米のような社会や民主主義を知れば、他の価値観に感化されて社会が不安定になる恐れがあると思う。どのようなものであっても隣の芝は青く見えたりするものだから。
ムスリムであっても、もし様々な情報を入手出来て選択することが可能であったならば、生き方を模索するようになるかもしれない。
家庭を守ることを当たり前と考えていた人が、”本当の私は家事をこなすことよりも、外に出てバリバリ働くことが好きなのだ”と気づくかもしれない。あるいは外で働いていた男性が、”家で家事や子育てをするほうが向いているかもしれない”と秘めたる自分を知るかもしれない。異性ではなく同性に惹かれる自身に出会うかもしれない。

さらに、人は完全な自由の発想はできなくて、ゼロから何かを決断することはできなんじゃないかと思う。何かを選ぶにしろ、何を正しいと判断するのかにしろ、何かしらの外的要因に縛られていると思う。
だから、社会の価値観や考え方、あり方に人々は影響を受けて、事物を判断している。逆に、一人ひとりの価値観や考え方によって、社会のあり方が形つくられている。
個人としても社会に通念する価値観や倫理観も絶対的な正しさなんてなくて、外部の変化によって常に流動的なのではないかと考えている。

つまり、外部要因による影響を強く受けて人や社会の価値観や倫理観は形つくられてはいる。しかし、こうあるべきだと他者や社会の価値観や倫理観を強要することは分けて考えなければいけないのではないだろうか。

ムスリム女性の多くもいまは家のなかで過ごすことが当たり前とされているが、様々な価値観に触れることで、考え方が変わるかもしれない。
そうしたときに個々人の価値観の変容を社会や宗教はどう対応していくのだろうか。イスラム教的なアプローチが崩れて、社会が混乱することを恐れるかもしれない。
おそらく賄賂と同じで女性の立場の変化は容易ではなく、一進一退を繰り返しながらになるのではないかと思う。

価値観が混在し流動するなかでどうあるべきなのだろうか。

これからどのように価値観が変容していくのかはわからない。ただ価値観や倫理観が私たちと違うからと言って、正すようなことをいうのは早計だと思う。
こうあるべきだと求めるのではなく、様々な価値観から選べるのが理想ではないだろうか。
著者は本書p185で”相手が前提すら異なった存在だと受け入れ、価値観が違っても、同じ場にいられる道を探すことが、本当の意味での共生ではないだろうか”と述べている。
正しいか正しくないかで考えて、こうあるべきだと主張し合うのではなく、異なった価値観が共存できる方法を探る道を選びたいと思った。
あからさまな左寄りの考え方で真新しい回答ではないし、簡単なことではないことも分かっている。
しかし、冒頭で述べたように、想像力は当てにならないから、善意として僕の価値観を主張しても、相手にとっては迷惑極まりないかもしれない。
複雑に絡まり合った人々を同じ価値観にまとめるよりは現実的なように思う。


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