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第21話「鳩が飛ぶのを見てみたい」

流し台に置いたマグカップを手に取って、私は底にこびり付いたコーヒーのカスを見つめた。頭の中で描くのは鳩のタトゥー。紺色の鳩が飛ぶ姿のデザインで刻まれていた。木島直樹の手の甲に彫られたタトゥーと同じデザインなのか知らないけど、恐らく同じだと思った。

まさか、身内の人間が今回の事件に関わっているなんて信じられなかった。しかも、我が娘は犯罪に手を染めている!?気持ちを落ち着かせようと水洗レバーを下ろして、マグカップに水を溜めた。スポンジを手にして念入りに洗い始めた。いつもの光景なのに違って見える。

ただ単にマグカップを洗っているだけなのだが、こんなにも落ち着かないなんて動揺が激しい。

指先からマグカップを落として、ステンレスの流し台に鈍りのある音が響き渡る。私は洗うのをやめて、浴室の方を眺めて深い溜息をついた。まだ確定したわけじゃない。何も想像だけで娘を犯罪者呼ばりしたら最低だ。

私はソファに移動すると目を瞑って、様々な考えを浮かべた。娘が風呂から上がってきたら問い詰めることだってできる。いや、その前に誰かに相談すべきじゃないのか。だったら一人しか居ない。でも、それは娘を疑っていると言っているようなもの。僅かな可能性に賭けて、ここは自然に聞けないだろうか?

さっき、たまたま見たんだけど、あなたタトゥーなんて彫ってるのね。あくまで自然に聞けばいい。何もタトゥーが駄目とかそんな感じで聞かなければいいだけだ。今時の若者はお洒落の一つとしてタトゥーなんて当たり前なんだから。

すると、浴室のドアの開く音を耳にした。瞬時に顔を上げて、尚美が出て来ることに胸をドキドキさせた。駄目、駄目だ!マトモに顔も見れない。そう思っても娘は出て来る。何も知らないということは、何も恐れを知らないのと同じ。

きっと尚美は見られたことさえ気付いていない。

いつも日常が始まって、いつもの日常が流れようとしているだけなんだ。

バスタオルを巻いた姿で尚美は、私の方を見ることなく自分の部屋へさっさと向かう。その様子を眺めたまま、声をかけることができないでいた。我が子は誰よりも可愛い。もしも娘が犯罪に手を染めているとしたら、私はそれをただ黙って目を瞑れと言うのか。

そんなの親として間違ってる。

私は意を決してソファから立ち上がると、尚美の部屋の前に立ってノックをした。自然に聞けばいい。何気なく聞けばいいんだ。そう言い聞かせながら娘の返事を待った。ドライヤーの音が止まり、娘がドアまで歩く気配をドア越しから感じた。

すると、ドアがわずかだけ開いて隙間から尚美が顔を覗かせる。まだバスタオルを巻いた姿で、私の顔を見るなり無表情のまま見つめた。そして口パクで何?という台詞を言うのだった。

「あのね。さっき、見えちゃったの。ほら、お腹にタトゥーを彫ってない?お母さんの見間違いかもしれないけどさ。別に駄目とは言わないよ。ただ気になったから」

「そう。ただのファッションよ。なんかノリで彫ったの。これぐらいの大きさなら目立たないし、私の周りの女の子なんて、みんな彫ってるわよ。お母さんも彫ってみる?」

「そうね。アリかもね」

「やだ、冗談よ。お母さんの年齢でタトゥーなんてありえない。ウケる」と尚美は笑った。久し振りに娘の笑う顔を見たような気がした。

「もういい?」と尚美がドアを閉めようとしたので、私は頷きながらドアの前から離れた。

背後でバタンと、ドアが閉まったのを聞いたあと、私は振り向いてドアの向こうに居る娘の顔を想像した。

彼女はどう思っているのか。母親からタトゥーのことを聞かれて動揺していないか。だけど、不自然なところはあったと思う。

後藤くんと出会ったとき、人はやましいことがあるとよく喋るなんて言っていたことを思い出した。娘の態度を見て、あんな風に冗談を言って話す関係じゃない。昔はそうだったかもしれないけど、私と尚美は微妙な関係になっている。ましてや、あんな風に笑って話すことはなくなっていた。

娘は犯罪者なのかも!?

どうすればいいか。一人で解決できるなんて思えない。もう相談するしかない。後藤くんに話してみよう。私はリビングに戻ると、携帯電話を手にして後藤くんの番号に指先を動かした。

最悪な一日が始まろうとしていた。

第22話につづく

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