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記憶を紡ぐ糸 第12話「真実」

 今日は、じめじめとした蒸し暑い朝だ。私はいつもよりも早く目が覚めた。今日は土曜日。友一さんの仕事は今日が休みだ。私は木曜日に聞いたあの出来事を、土曜日に問いただそうと決めた。平日に聞くよりも、ゆっくりと話が出来ると思ったから。
「友一さん。私を階段で見つけた時、あなたは何をしていたの?」
 新聞を読んでいる友一さんは、「車を運転していて、偶然君を見つけたんだよ」と従来の主張を繰り返した。「本当に?」と私が聞くと、「本当だよ」と重ねて言った。
「でも、あんなところを通りかかるものなの?」
 私がそう尋ねると、友一さんがこっちを振り向いた。いつもの笑顔は消え失せている。
「通りかかるよ。この質問、どういうつもり?」
 彼は低めの声で聞き返す。表情がみるみるうちに硬くなっていく。私は彼に水色のスマートフォンを見せる。彼は、信じられないという表情を浮かべた。
「携帯、見つかったんだ。良かったね」
 この言葉が、私にはとても白々しく聞こえた。
「あなただったんでしょ? 私のストーカー」
「俺はストーカーなんかじゃない! ただ、君が好きなだけだ。好きすぎて、君のことを付け回しただけだ」
 友一さんは、今まで見たことが無いくらいにすごい剣幕で声を荒げた。でも、これではっきりした。友一さんは、私のストーカーだった。私はスマートフォンに残っている、ある受信メールを見せた。
「一番最後に来たこのメールに『君に会いたい』ってメールがあるけど、あなたがあそこに呼び出したのね」
 友一さんは頷いて、「違う、呼び出したのは君だ」と消え入りそうな声を出した。私は、なぜこの場所を指定したのだろうか。
「どうして、私はあそこを選んだの?」
「さあね。多分百メートルくらい先に警察署が見えたから、それが原因かもね」
 おそらく、私は彼を警察に突き出すつもりだったのだろう。
「君は、もう我慢できない、いい加減にやめてほしいって言ってた。そして、俺のことを警察に突き出すとまで言ってきやがった。そんなことされたら、俺の人生は台無しだ。だから俺は、君を近くの階段まで追い詰めて、突き落とした」
 友一さんは、君が悪いんだ。俺の愛を受け入れないから、と捲し立て続けた。今の彼の目は、この五か月で見せたことが無い、残忍で凶悪な目だ。
「狂ってる……。あなたは、狂ってる!」
「狂ってなんか無い。俺は至って正常だ」
 そういう言葉を吐ける彼の神経が、私には理解できなかった。人の記憶を失わせておいて、このような事を言えるなんて、虫唾が走る。
「突き落としたってことは、私を殺すつもりだったの?」
「そうだよ。俺の愛を否定したんだから、君に生きている価値は無いと思った。だから殺そうとして、階段から突き落とした。でも、君は死ななかった。その代わり、君は記憶を失っていて、俺を命の恩人だと思い込んだ。最高の気分だったよ。君を俺のものにすることが出来たんだから。これからも、俺の愛を受け取ってくれるよね?」
 今まで、私はこの男にまんまと騙されていたのだ。記憶が無いことを良いことに、自分の思い通りの関係を作り上げたのだ。怒りを通り越して、恐ろしさを感じた。
「私は、あなたを軽蔑します」
 私は友一さんをどうしようというつもりは無い。一刻も早くここを出て行って、この忌々しいストーカーから離れよう。私は玄関に向かって歩き出した。すると、友一さんはキッチンから包丁を取り出し、そのまま私に向かってきた。私は彼に呆気なく捕まり、羽交い絞めにされた。彼は左腕で私の首を抑え、右腕で持った包丁を喉元に突きつけた。
「若葉ちゃん、一緒に死のう。そして、あの世で一緒になろうよ」
 友一さんは、耳元で囁いた。そして、私の後ろ髪を持ち上げて、首筋をぺろりと舐めた。舌の湿りが肌に残って気持ちが悪い。恐怖と嫌悪感がどんどん湧き上がってきた。
「いやっ、離して! 誰か……誰か、助けて!」
「ひどいなあ、何で拒否するのさ。まあ、俺は追いかける方が好きだから、ぞくぞくして楽しいけど。さあ、一緒に死のう。誰にも邪魔されないところで、いつまでも二人でこれまで通り暮らそうよ」
 友一さんが包丁を持っている腕を動かす。私は死を覚悟した。この現実を直視したくなくて、私は思わず目を閉じた。その時だった。玄関のドアをばんばんと勢いよく叩く音が聞こえてきた。そして、玄関のドアが開いた。そこにいたのは、平嶋さんだった。
「若葉ちゃん!」
 平嶋さんが叫ぶと、友一さんは怯み、その隙を突いて私は玄関まで逃げることが出来た。平嶋さんは、私を守ると言わんばかりに私の前に立った。
「平嶋、何で来てんだよ」
「何でって、今日は遊びに行く約束だっただろうが。俺がここに来たら、いきなり若葉ちゃんの悲鳴が聞こえてくるし、お前は何やってんだよ」
「平嶋ぁ、その女をこっちに渡せ」
 友一さんは尋常じゃない表情を浮かべて喚く。平嶋さんは、彼のその姿を見て唖然としていた。親友の裏の顔を信じられないでいるのだろう。
「若葉ちゃん、気付いてあげられなくてごめんな。兵藤とか言う探偵の言う通りだったよ。八神。お前、最低だよ」
「うるさい! 良いから、早くこっちに渡せ」
 友一さんの表情からは、理性というものが消えていた。私が今まで見てきた穏やかな顔つきからは想像がつかないくらい醜く、まるで獣(けだもの)を見ているかのような感覚に襲われた。
「平嶋さん、兵藤さんを知っているんですか?」
「俺なら、ここにいますよ」
 後ろを振り向くと、息を切らした兵藤がそこにいた。彼はマンションの入り口付近で、警察に電話をしていたらしい。パトカーのサイレンの音が徐々に近付いてくる。そして、パトカーはマンションの前で止まり、けたたましいサイレンの音を鳴らし続けた。それに驚いて、近隣の住民が外に出てきて、物珍しそうに私たちを見始めた。
「観念しろ。あんたもこれで終わりだ」
 兵藤が友一さんを諭すように、静かに言った。
「黙れ! こうなったら、お前ら全員ぶっ殺してやる」
 友一さんは包丁を持ったまま、私たちに向かって走ってくる。もはや、彼は自暴自棄になっていた。兵藤はいきなり前に出て、友一さんに向かっていった。そして、素早い右ストレートを友一さんの顔面に浴びせた。パンチは顔面にクリーンヒットし、友一さんは玄関に大の字で倒れこんだ。
警察官が来て、友一さんを逮捕したのは、そのわずか一分後の出来事だった。

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