見出し画像

強欲な自分

先日、母と姉とその旦那とその子供と5人で箱根旅行へ行った。姉家族と会うのは久々だったが、甥っ子の成長具合に驚かされた。人とは産み落とされてから約1年半でこんなにも人になるのか。生まれたばかりの頃は、人というよりもまだ動物に近い印象を受けたが、今や立派に二足歩行をするのである。発語はまだしないが、確実にこちらが話しかけている内容はある程度理解している。人間の言語習得はまだまだ解明されない部分が多いが、本当に不思議なものである。

そして僕が驚いたのはそれだけではない。甥っ子が成長していると同時に、姉も驚くべき変化を遂げていた。彼女は間違いなく母になっていて、十分に子供の面倒を丁寧に見ていた。子育てとは一概に言っても、その質はピンキリだと思う。ただ物を食べさせて、おむつを変え、ぐずり出したらとりあえずYouTubeを見させて、それでも泣き止まなければ放置する。これも子育てと言ってしまえば子育てだ。しかし姉がしていたのは、子供を人として捉え、優しく語りかけて、不安を感じさせてないように優しく抱きかかる。そんな包み込むような子育てだった。また子供の機嫌が良い時には、共に歩き回って新しい発見を喜ぶのだ。それはまるで対話的子育てとも言えるようなもので、それを通して子供に世界の素晴らしさを教えているかのようだった。

旦那も同様に子育てをしていて、夫婦の連携はとても鮮やかだった。子供が産まれた夫婦の話を聞いていると、子育てを手伝っていると誇らしく言う旦那の話がよく出てくるが、実際にそんなことを自慢げに言われたら失笑ものだろうなと思う。自分の子供を育てることは己のタスクであり、それは手伝うことではない。主体的に動いて取り組み、パートナーとのチームワークを活かし、効率化を最大限に図り、質を上げる作業だと思う。

無欲と強欲

旅行中、この2人を見ていて強く感じたことがあった。それは2人がとても無欲なのだ。ご飯を食べる時も、疲れて眠りたい時も、行きたい場所がある時も、自分の欲望よりも子供の状態が優先される。子供の状態が優先されれば、自分たちの欲望は後回しにするしかなく、結果的にそれは叶わなかったりもする。しかし彼女たちはそれでもとても幸せそうに見えた。これは自分の子供という無力な存在が、自分たちに依存しているという状態から満たされる究極の承認欲求の充足なのだろうか。

そんな様子を見ていて、では自分はどうなのかと考えてみる。僕はこれまで結婚願望というものをあまり抱いたことがない。理由はいくつか考えられるが、おそらく最大の理由は自分の時間と空間が奪われることへの居心地の悪さだと思う。一人の時間や空間はとても大切なもので、それがないと日常が壊れてしまうとすら感じる。結婚はもちろん好きな人とするという前提があるが、それでいても好きな人との時間と空間よりも、一人の時間と空間を優先してしまうということだろうか。

同棲も同じ理由でしにくいが、結婚よりはまだハードルが低いだろう。同じ家に暮らしても、自分の部屋を確保してしまえばまだ幾分やりようがありそうだ。ただこれに関しては相手を慎重に選ばないといけないという注意点もあるが。結婚しても同じ体制を取れば問題ないかもしれないが、それが死ぬまで続くかもしれないと思うと少しゾッとする。あまり現実的には思えない。

そして、この一人の時間と空間と対極に存在するのが子供だ。先述の通り、子供が産まれてしまえば、自分の欲望を全て後回しにして子供を優先させなければならない。眠りたい時に眠れないし、好きなものを食べたいときに食べられない。そして読みたい本がある時も読めないし、行きたい場所に行けなくなってしまう。まだ想像しかできないが、その生活はとても息苦しそうに思える。

このように考えると、僕は自分がとても強欲に思えてくる。なるべく選択は自分が望んだものを選びたいし、納得していない状態で自分以外の存在を優先させるのも疲れてしまう。それはまるで我儘な子供のようで、親になる資質がないとも捉えるだろう。これは年齢的に変わっていくものなのか、自分の家庭環境などにより形成された人格なのか、今はまだわからない。

子供が産まれて無欲になる、ならざるを得ない親と強欲な幼き自分。この対比はどちらが幸福かなんて決められるわけもないけれど、それでも周りの多くの人が前者に望んでなろうとする動機が僕には理解できない。これは自分の不完全性からきているものなのだろうか。
ああ、世界には不思議なことが多いなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?