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江戸のお廻りさん 新徴組の組士ってどんな人たち?

新徴組本部跡、湯田川温泉 隼人旅館の庄司庸平です。

文久3年(1863年)、清河八郎の献策によって集まった浪士組が、将軍上洛の露払い役として上京します。しかし京都で二つに分かれ、京都に残った方が【新選組】に、江戸に戻った方が庄内藩預かりとなり【新徴組】になりました。

今回は新徴組の組士についてのお話し。


組士の出自と出身地

文久3年(1863年)の新徴組組士375人のデータによれば、身分の判明する184人の内訳は、
浪人 105人
百姓 48人
藩士 13人
旗本家来 4人
郷士 5人
社人 3人
医者 2人
幕臣、柔術家、剣客、修験者それぞれ1人

と多種多様です。

出身地が判明する346人は、
東北17人
関東197人(江戸12人)
甲信74人
北陸13人
東海8人
近畿7人
中国10人
四国6人
九州14人

と、ほとんどが関東出身者でした。

年齢が判明する284人のうち、最年少は17歳、最年長は62歳、平均は32歳余でした。


新徴組はヒーロー不在?

新選組】の組士と言えば、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨、山南敬助、長倉新八、斎藤一…。小説、映画、ドラマ、マンガ、ゲーム等々で大活躍の誰もが知っている幕末のヒーローたちですが、残念ながら【新徴組】は全くの無名と言ってもいいでしょう。

私の知る限りですが、平成以降に新徴組を題材にした作品は

・小説  【新徴組】佐藤賢一
     【遺訓】 佐藤賢一
     【緋色の華】黒崎視音 
・マンガ 【花のおまわりさん】坂口よしを
・ドラマ 【花嵐の剣士】NHK BSプレミアム

などがあります。

小説【新徴組】の主人公は沖田林太郎
新選組一番隊隊長・沖田総司の義兄(総司の姉・みつの夫)で、天然理心流試衛館で剣術を学び免許を得ます。浪士組に近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに参加。浪士組の帰東に際して近藤ら天然理心流一門は京都に残留しますが、これに加わらず江戸へ戻ります。幕府が消滅し庄内藩主・酒井忠篤が庄内に戻ると、これに同行。戊辰戦争後、松ヶ岡の開墾に従事しますが、明治5年(1872年)7月に脱走し東京に戻りました。明治16年(1883年)死去。

【遺訓】は沖田林太郎の長男で、新選組一番隊隊長・沖田総司の甥、新徴組士・沖田芳次郎が主人公。沖田芳次郎は家族が東京に戻った明治5年7月の集団脱走に同行しませんでしたが、後に東京に戻ります。明治19年(1886年)東京で警察官になった沖田芳次郎は、新選組隊士で縁戚関係にあった井上泰助の妹・ハナと結婚。明治21年(1888年)には、母・みつと弟の卓吉を連れて宮城県塩竃に移住。魚介類の売買や製塩業を手掛けましたが、事業が失敗し、明治28年(1895年)失意のまま43歳で死去。

ちなみに、【新徴組】【遺訓】の著者の佐藤賢一さんは新徴組が属した庄内藩のあった、山形県鶴岡市出身。

マンガ【花のおまわりさん】に登場するのは3人の組士。
1人目は柏尾馬之助
阿波国出身の人物で、玄武館・北辰一刀流の大目録皆伝の剣豪。八丁堀の北辰一刀流剣術道場を任されていました。新徴組剣術教授方。元々公武合体論者でしたが、庄内藩の佐幕強硬派からの影響で、新徴組が次第に佐幕へと傾向を強めると新徴組を脱隊します。脱隊後は維新の志士として明治維新に助力しています。

2人目は玉城織江
豊後国出身。剣豪・島田虎之助を慕って上京、男谷道場に入門し直心影流の免許を得ます。新徴組剣術教授方。剣の腕は新徴組随一と謳われました。戊辰戦争後、庄内藩松ヶ岡の開墾に参加しましたが明治5年に脱走。その後の行方は不明。

3人目は中澤琴
新徴組唯一の女性剣士。
小説【緋色の華】、ドラマ【花嵐の剣士】では主人公。
上野国生まれ。父が法神流剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、中でも薙刀においては父をも凌ぐ腕前であったと言われています。浪士組に参加する兄・中沢貞祇に従い男装して参加。女性ながら身長約170 ㎝と当時にしては高身長で、男装していれば娘たちに惚れられて困ったと伝えられます。

実は中澤琴は女性であった為か、浪士隊の名簿にも新徴組の名簿にも名前はありません。しかし兄・貞祗が書き記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子が記されています。

戊辰戦争を引き起こすきっかけとなった庄内藩による江戸の薩摩藩邸の焼き討ちに中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。また、庄内藩と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ逃げ延びたことなど、新徴組士と一緒に中沢琴が戦っていたことがわかります。

中沢琴と兄は、戊辰戦争後、庄内藩松ヶ岡の開墾に従事しますが、1874年(明治7年)に故郷に戻っています。中沢琴はそのとき30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、彼女は自分より強い者としか結婚しないと決めており、求婚者には剣術の試合を申し込んだといいます。結局、自分より強い者が現れなかったため生涯独身で過ごしたといわれています。

江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を生きた中沢琴は、昭和2年10月12日、88歳前後で故郷の群馬県で死去。


他にはどんな組士がいたのかと言いますと、

山田官司
安房国出身。新徴組取締役、剣術教授方。玄武館・北辰一刀流、千葉周作の高弟で「千葉成政先生夜話聞書」の著書あり。身長6尺2寸!(約188㎝)もあり、江戸時代の男性の平均身長は155㎝といわれているので、当時としてはかなりの大男でした。
戊辰戦争では各地に転戦し、小名部口の激戦で敵の砲弾の爆発を喰らい、脇腹と背中に重傷を負います。湯田川で療養し、一時快方に向かうも再発して死去。

片山庄左衛門(片山喜間多)
上野国出身。剣術教授方。真神道流柔術師範家出身。

大嶋一学
播磨国出身。柳生心眼流柔術相伝者。

などの一門を代表するような達人もいました。


新徴組は新撰組より好待遇

新徴組組士は、庄内藩士に取り立てられて家禄(給料)を支給され、組屋敷(社宅)を与えられていました。新選組より4年早い武士化の実現でした。また、家族との同居が許され、組士の死亡後は子や弟などが跡目を継ぐことができましたので、新選組よりも生活は比較的安定していたといえます。

新徴組は新撰組と違って、自主的な活動はほとんど見られませんでしたが、新撰組のように組内の思想の違いが粛清にまで発展することはありませんでした。(しかし、戊辰戦争後に帰農して松ヶ岡の開墾事業に従事した際、組士のほとんどは、本来庄内藩とは縁もゆかりもなく、その風土になじめない者も多かったため、最終的には脱走・離脱行動が相次ぎ、内紛・粛清が展開されました。)




                                                                                              参考:幕末大江戸のお廻りさん 史料が語る新徴組              
             著  西脇 康 
            監修  日本史料研究会

   図説 武術辞典   著  小佐野 淳
                

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