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江戸のお廻りさん 新徴組事件簿①

新徴組本部跡、湯田川温泉 隼人旅館の庄司庸平です。

幕末に庄内藩の下で江戸市中取締りの任に就いていた【新徴組】。
慶応元年(1865年)2月には定員が160人と決定し、3月には鉄砲稽古も開始されました。4月15日、幕府は新徴組に対し、江戸の昼夜廻り(パトロール)を一手に命じました。

今回は通称「藤岡屋日記」見られる新徴組関連事件のお話しを2つ。


旗本切り捨て事件

慶応元年(1865年)12月12日夜、新徴組六番隊が市中廻りをしていたところ、神田明神前において無提灯で馬に乗った侍が隊列に駆け込み、静止を聞かずに鞭で打ちつけてきたので、組士の羽賀軍太郎・中村常右衛門・千葉雄太郎の3人がこれを斬り捨てました。

後にその侍は直参旗本で小普請組石川又四朗支配の永島直之丞であることが判明します。永島は鶏声ヶ窪に上屋敷を持つ高五百石の旗本でした。

庄内藩家老の松平権十郎は、幕府からの御達に「身分柄の差別なく斬り捨ててもよい」とあったため、3人に落度は無く、別に構うほどのことはないと楽観視していました。

ところが、幕府から庄内藩へ大きな圧力がありました。大目付の有馬阿波守と目付の新庄右近が庄内藩の重役へ極秘の内談として漏らした内容は、【旗本以上の身分を討ち果たした者への致し方もあろう(忖度せよ)】として、当人たちの所存で切腹するよう取り計らうべきだというものでした。そうすれば藩主の勤め向きの都合もたち、新徴組の名義を唱えるかどもたつと…。

これを知った藩主・酒井忠篤は、新徴組委任の件は若年の自分では任に堪えないので辞退するしかないと、藩士たちに心の内を明かしたそうです。

そして、主君の心の内を知った3人は、中村が26日の午後9時半頃に、羽賀が午後10時頃に、千葉が27日の午前2時半頃に、それぞれ書置きを残して切腹して果てます。

それぞれの書置きには、中村は「御公儀様へ対し、酒井左衛門尉様へ厚き御心配あいかけ恐れ入り候次第、かつは御同士へ申し訳これなし」と。

羽賀は「公辺にても容易ならざる御さしつかえにあいなり候趣、ひっきょう私一人より右ようなりゆき候段、深く恐れ入り」と。

千葉は「公辺においてもってのほか、容易ならざる儀と伺いたてまつり、かつ当家の御不都合の場合に至り、何とも恐れ入り……切り捨て候は私壱人に御座候」と記されていました。
3人は、言うなれば、謂れの無い切腹をさせられたに等しいものでした。

12月27日、藩主・酒井忠篤は「切腹に及び候始末、親切のほど申すべきようこれなし。感涙にたえず候」と、主君の為を思い自害した3人を称賛し、12月29日に中村の子・安太郎が、慶応2年2月中には羽賀の異父弟・岸巳之松と千葉の弟・弥一郎が新徴組へ新規に召し抱えられました。

この事件以来、火事の際に出火場所から八町以内において妨害となるものは「切り捨てご免」と称して江戸の市民から恐れられていた御使番役(若年寄の支配に属し、戦国時代において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職。これがそのまま江戸幕府においても継承された。)といえども、新徴組に対しては、かえって道を避けるようになったと言います。



講武所剣術教授方との問答

慶応元年12月13日、市ケ谷田町(現・新宿区)で新徴組と講武所剣術教授方【桃井春蔵】との往来行き違いの一件が起こりました。

この日は市ケ谷加賀屋敷の高五千石、巨勢鐐之助屋敷で稽古修めがあり、剣術師匠の桃井春蔵は子供3人、弟子8人を連れて稽古をしました。それが終わってからご馳走になり午後11時頃に屋敷を出て帰路に着きます。
屋敷から長命寺谷を下って田町通りへ出たところで、パトロール中の新徴組に出会いました。

桃井春蔵は新徴組に気付き、道の端によって通り過ぎようとしたところ、新徴組が行く手を遮り「通行人よ、なぜ片側に寄って道を譲らぬのか」と言いがかりを付けてきます。
春蔵は「お廻り方とお見受けしたので片側によって通っている。これほど広い往来で、拙者が通ると通行の妨げになるのか」と返します。
すると、新徴組が「無礼、過言である」と刀の柄に手をかけ抜こうとします。これに合わせ桃井春蔵の若い弟子たちも刀を抜こうとしますが、桃井春蔵は弟子たちが刀を抜こうとしたのを取り押さえ「師匠の命に背くのか、刀を収めよ」制します。これにより、新徴組も刀を抜くことが出来ずに収めました。

そして、桃井春蔵は隊の番頭に近寄り、下馬させて言います。

「拙者は講武所(幕府の軍事修練所)剣術教授方を務める桃井春蔵である。あまり片隅を通っては公儀(幕府)へ対して申し訳が立たない。
先程より馬の上から見ていたので知っているだろうが、この広い往来で邪魔にもならないのに端に寄せさせて、そのうえ刀まで抜きかけるとはどういうつもりだ?乱暴者の取締りではなく、かえって乱暴者そのものではないか!
拙者は身分が低いからよかったものの、もし身分の高い方であれば家来も多く、このような乱暴を仕掛けては許してはくれないだろう。そうなれば大騒動になり、市中取締りではなく、市中取り乱しとなる。御上に伺いを立てて、今後の往来行き違いの心得にいたそうぞ!」

すると番頭は恐れ入り、一言の申し訳も出来ず、この件は表沙汰にしないでくれと平謝りしてきました。

桃井春蔵も事を荒立てるつもりは無かったので、番頭に詫び文状を書かせ、その場は無事に双方が引き取りました。

江戸の町民はこの話を新徴組の理不尽な「お廻り」を屈服させた痛快劇として歓迎したそうです。


参考:幕末大江戸のお廻りさん 史料が語る新徴組 
              著 西脇 康     
             監修 日本史料研究会

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