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絶望の力を借りろ、その時、愛を取り戻すことが出来る。~E.フロム『愛するということ』より~

===書籍要約=================

愛には根強い問題がある。ほとんどの人にとって、愛とは「どうすれば誰かから愛されるのか」を意味してしまうからだ。愛とはそうではない。「私はどう人を愛すればいいのか」。本来あるべきこちらの問題は、残念だがほとんど取りざたされない。

なぜなのか。

すぐに答えを出す前に、「我々はどんなものを重要だと教えられているのか?」。このことについて考えを巡らせてみたい。フロムによれば、それは以下の2点なのだという。

男性であれば、「勝利すること、人に影響すること、成功すること」
女性であれば、「魅力的であること、美しくあること、官能的であること」

つまり、1.どうしたら人気が出るのか、2.どうしたら性的にアピールできるのか。我々にとって重要なことは、たったその2点に集約される。

さらに論を進めてみよう。

愛の問題とは次に、「誰から愛されるべきか」「どうやったら自分が愛されるべき適切な対象を選び出すことができるのか」という点に行き着く。これは、問題は全て「選択する対象」にあるとする態度である。「自分自身から主体的に人を愛する能力」にはさっぱり焦点があたっていない。

これは明らかな問題である。

だがこの状況は、かつて違っていたのだという。

人が置かれた社会の状況が今とは違った。結婚相手とはかつて、自分以外の両親など、他人が決めるものだった。ここでは愛する人は選択できる対象ではありえず、与えられた関係の中で愛を育んでいく必要があった。つまり、かつて愛とは「逃れられない与えられた環境の中で、自らが育まねばならない能力」だったのである。

しかし現在、我々は伴侶を選択することができる。これが理由で愛が選択可能な対象の問題になったのだとフロムは語る。

ーーーー考察ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

愛が無限な対象から選択される時、内省が行われない。「あいつは本当に自分を愛する能力をもっているのか」。それだけが問題となる。逆に、愛の対象が選択できない(有限)の場合、「育むべき能力」となった。その時はじめて、「自分はどう彼女を愛するのか」と、自らを振り返るようになる。

人は無限の自由を獲得したが、愛を他人から与えられるべきものだと考えるようになってしまった。つまり愛を人のせいにしだした。

根深い。例えば職業選択においても同じ問題が出てくる。

「自分がすべきことがみつからない。どうやって生きたらいいかわからない」。学生と接していてもそうだし、私自身もそうだ。フロムの言を借りると、これはどう解決できるのか。

選択肢がありすぎる時、人は自らにではなく相手に要求を出すようになってしまう。つまり人類が獲得した最高の財産である自由。それこそが我々を天から与えられる使命・天職から引き離しているのである。

二階建てバスで一休み。。。

話を戻して考察を進めよう。

人は自由になった。それゆえ愛を他人のせいにするようになった。

しかしそれでは、人は何から自由になったのか。その”何か”が分かれば、問題の諸因が判明する。

それは宿命からの自由であろう。決められた伴侶と愛を共にしなければならない。決められた仕事をしなければならない。決められた社会階級で生きなければならない。そんな宿命があるとき、人は愛を他人のせいにするのではなく、自らの中から開発していった。

宿命を忘れた時、人は愛を忘れる。ヘーゲルやキルケゴールは、人は絶望を糧に生きるべきだと説いた。それは、トラウマを認め、その宿命の中で生き抜かざるをえないと認識した時、人は愛を自分自身に帰着させることができるからだ。どういうことか?

どう抗おうとも打開できないものに、どうしても抗ってしまう。そこに光明があることはアドラーの時代から知られている。かなりの割合の画家や詩人が視力に障害を持っていることが知られているし、左利きであるのに右利きを強制された人々が書に秀で、絵画や工芸に才能を発揮している。また、サーカスでアクロバットを行う団員の多くが幼いころ、体が弱かったこともアドラーが発見している。アドラーはこれを器官劣等性という言葉で記述した。劣った部分を徹底的に鍛えることで、超人的な力を手に入れられる。精神についても同じ事だ。
Adler, A. (1931). What life should mean to you.

宿命に対して立命という言葉がある。自らの苦境に押し潰されるだけではなく、苦境から自らの道を見出し、人のために生きる。元引きこもりが引きこもりを支援する。元アルコール中毒患者が、アルコール中毒患者を支援する。立命はあがないから生まれるのだ。

ローマの信徒への手紙 3章23~24節にはこうある。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの技を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。

日本聖書協会、共同訳聖書実行委員会(2015)『聖書 新共同訳 新約聖書』Kindle版より

さらに、フィリピの信徒への手紙 2章にも代表されるように、人は皆、キリストを模範とせねばならない。つまりエゴが生み出した罪、”トラウマ”を償うことにより神の祝福を得られる。その時我々は、天命を生きることが出来るのである。

キリスト者キルケゴールは、自分の力で人生を切り開くこと(実存)を何より重視した。立命とはすなわち実存。我々は使命を得るためには、宿命を認識しなければならないのだ。

もし、自分の力で人生を切り開くことから、絶望・宿命が抜け落ちてしまうとどうなるか。

「人を操作する」という先のエゴが顔を出すのである。宿命を見つめないのなら、誰かに自分を愛させようとしてしまう。「こんなにすごい自分を愛せ」と、愛とは与えられるものだと捕らえてしまうようになる。これは愛の候補が無限にある場合である。無限の選択肢には、”自分に都合がいい何か”を探させてしまう罠が潜む。自分がどう動くか、どう愛するか、という主体を霧散させてしまうのだ。

しかし宿命を捉えることさえ出来れば、かつて、他人に決められた妻を幸せにしようとしたように、運命の人を幸せにしようと愛を自ら開拓するようになる。

愛とは人を操作するのではなく、自らを捌く能力である。宿命から追放された自由すぎる世界では、人は自らの愛をも放逐してしまう。完全なる自由は人を狂わせる。

絶望の力を借りろ。その時、愛を取り戻すことができる。”無限の愛”は有限からの使者”過ち”から生まれる。咎こそが我々を映す鏡。自らを取り戻す手綱。愛は罪から生まれる。


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