見出し画像

エロティックな愛と肉奴隷


人を知り、その無限性に触れるならば、そこで感じる愛は恋に落ちたような一体的なものではない。

その代わり、一瞬一瞬、二人の越えるべき壁を乗り越える奇跡を感じるのだ。

しかし殆どの人は、人とはすぐに理解できるものだと感じており、面白みもまた一瞬で枯渇してしまう。

そんな人にとって、親密さは性行為によって認識される。彼らは人格を探求するのでなく、肉体を探求するのだ。

E. Fromm  "The art of loving" より私訳
邦訳 E.フロム『愛するということ』


物質的な豊かさを求める話がはびこっているけれど、そうした人の愛は肉を求める愛にしかならないとフロムは警告する。

肉を求めるのか、人を求めるのか。

真の快感は人格を求めねば得られないのに、愚か者は豪華な品物を漁るように、異性を漁る。

釈尊が悟りを開き、始めて語った説法は『初転法輪経』と言われる。そこに述べられた悟りを得る方策、八生道(はっしょうどう)の最初にこうある。

「悟りへの道は、正しい見解という太陽光線で輝く」

ブッダとはサンスクリット語で「認識する」という意味であるし、釈尊が悟りを開いた時にされていた瞑想も、観察する瞑想ヴィパッサナー瞑想である。

ただ、僕は思うのだ。文明は認識することを困難にしていると。

母が作ってくれたおむすび。
子供が遠足に持っていくすいとう。
幼稚園の先生が読んでくれた絵本。

そこに我々が見つけるのは、食物や水分や商品といった類ではない。いわば本来の認識なのだと思う。

『小景異常』という室生犀星の詩がある。

   小景異情 室生犀星


ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土(いど)の乞食(かたゐ)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひて涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや


小景:どこにでもあるありふれた景色に、
異情:はっとしたなにかを見つける。


窓から見える父が残してくれたいつもの菜園に、毎日の母の手料理に、いつもの恋人の髪に。

だけれども、メディア学者マクルーハンが述べるホットなメディア、テレビやコンピュータの画面に小景異情は見つけられない。

そこに映ったものは、そこに映ったもの以上ではない。画面に映った肉だ。我々は肉ばかりを求め、小景異情を、人格を見ることを忘れた肉の奴隷になったのである。

クールなメディア、小説や新聞、はたまた野菜や川の流れまでをもマクルーハンはメディアと捉えるけれども、そうしたクールなメディアの中にだけ我らは小景異情を見つけられる。

「メディアによって我々は人格を変えられている。それに気づくことなくメディアを使うことは、メディアを操作しているのではなく、メディアに操作されていることを意味する」

「我らはそうと知る必要がある」

マクルーハンはそんな警告をするのだ。ホットなメディアは人類を肉の奴隷に変えた。

我らは認識することができるだろうか。日常に潜む小景異情を、人を奴隷に変えるメディアを。

一瞬一瞬、二人の越えるべき壁を乗り越える奇跡を。

画像1

お読みくださいまして、誠にありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです😃

起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
ご感想いただけましたら、この上ない幸いです😃

画像2


サポートありがとうございます!とっても嬉しいです(^▽^)/