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イスラム教徒の僕がフランスのテロをこう考える。

皆さん、どうも一週間ぶりです。マレーシアのカカです。

お元気ですか。先週記事が書けなくてすみませんでした。

いろいろ調べたいところがありましたので休みを取りました。

今週の話題は言葉の自由性について語りたいと思います。

先週フランスで殺人事件が起こりました。

ある教師は「言葉の自由性」はどんなものか生徒達に教えていた時イスラム教の最も偉大な預言者、ムハマド様の絵を描いて生徒達に例を教えました。

ところが一人の生徒がそんな例に不満があってその先生の頭を体から切り捨てました。

この事件はフランスでだけでなく世界中の人達が驚きました。

フランスの大統領マクロン氏はその後

「先生は悪くなかった。彼の教えは正しかった」と宣伝しました。

そしてマレーシアの元首相マハティール氏が

「昔に虐殺したフランス人の歴史を振り向けばイスラム教徒がフランス人を殺す権利がある」

と言いました。

この発言は西洋界だけでなくイスラム世界までびっくりしました。

ここで誰が悪いか誰が良いかという話をするつもりはありません。

ただ、「言葉の自由性」は何だろうか必要であろうかという話をしたいのです。

言葉の自由性、あるいは表現の自由性とは簡単に言うと言葉(または表現)を自由に使えるという意味です。

つまり言うことは全て表現できます。

言いたいことは言いたい放題です。

誰も起こる権利がありません。

また規則に縛られることもできません。

欧米では「言葉の自由性」が人間権利の一つだと認めました。

果たして、言葉の自由性は人間に適用できるのか。

僕が知っている限り殆どのアジアの諸国では言葉は自由自在に表現できないと思います。

僕の国マレーシアでは例えば親に向かって失礼な言葉を出せないという社会の決まりがあります。

またマレーシアは多民族国家ですので他の宗教や民族や身分などに悪いことを言ってはいけないのです。

というか規則に禁止されます。

日本も同じ状況だと思います。

ネットで言いたい放題の日本人もいますが危険な表現が見つかった場合警察に捕まると思います。

僕の意見は「言葉の自由性」を再定義しなけばならないと思います。

欧米では言いたいことは言える放題ですが僕にはそれまったく納得できません。

範囲は幅広くなると例えば万が一デマがあった場合誰もコントロールできなくなると思います。

どこまで自由か制限が必要となるというわけです。

逆に制限すぎることもできません。

なぜかというと、例えば政治家や官僚達が悪いことをしたとき批評すら国民が許されなかったら犯罪や不良な真似もコントロールできないのでしょう。

だから言葉か表現の自由性が必要です。

完全にだめでなくある程度に少し縛ったらいいと思います。

そもそも人間には自由性なんてないと思います。

自由というのは単なる理想な考え方のみだと思います。

必ず社会か宗教かまたは規則と自然に縛られるのです。

これが僕の意見です。

皆さんはどう思いますか。

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