見出し画像

女子力コンプレックス

私は非常に女子力の低い人間である。
女子力の高い人、特に料理や裁縫の上手な人を見ると、心底羨ましい。そしてどうして同じ女に生まれたのに、私にはあの能力がないのだろうか、とやり場のない恨めしさを抱いてしまう。
どの調味料をどのくらい使えば美味しいと思える一品が出来上がるのか、てんで見当がつかない。平面の布をどうやって組み立てたら使えるシロモノが出来上がるのか、想像出来ない。
多分私の脳には、こういうことを司る分野が何らかの理由で欠落しているに違いない、と思って諦めている。
世の人々は女子力の高い女性を褒めたたえる。私だっておんなじだ。羨ましい、ああ在ることが出来ればどんなに良いか、と思いつつ、賞賛の拍手を送っている。

職場の同僚、Dさんは洋菓子作りが趣味である。青果売り場で季節の果物を目にすると、『次はこんなタルトを焼いてみようかな』とウキウキするらしい。同じ趣味の人と集まって作った菓子を持ち寄り、お互いに食べ比べながらお茶をするのが楽しみなのだそうだ。私にとっては眩し過ぎる世界である。
いつもケーキの箱を綺麗に包んでいるからか、Dさんはラッピングがとても上手である。趣味が実益を生んでいる。
同じく同僚のNさんは料理全般が得意である。毎日家族五人分の食事の用意も全く苦にならないらしい。冷蔵庫にあるものを見て、『今日はこれにしよう』とパパっと決めて作れるらしい。
毎晩たった二人分の食事の為に頭を悩ませる、どこぞの誰かとは大違いである。
私から見ると、お二人共羨ましい限りの女子力の持ち主だ。

息子が幼稚園に入る前、園から『これこれを作って持たせて下さい』というお知らせがあった。通園用の補助鞄、上靴入れ、座布団、コップ入れ・・・私には拷問に等しい仕打ちであった。
オマケにそのお知らせには
『お母さんが心を込めて作った物をお子さんに持たせてあげましょう』
とご丁寧に、私にとっては深く傷つく一言が添えてあった。
息子が幼稚園に行く為に、カワイイグッズを器用に手作りしてあげられたらどんなに嬉しいだろう。それを手に楽しく幼稚園に通う我が子の姿を見たいのはどんな母親も同じだろう。
結局母に全て作ってもらった。器用な母が作ってくれた、凝りに凝った作品の数々を見た時、感謝はしたが言いようのない寂しい気持ちが募った。息子は喜んで持って通ったが、自分の女子力のなさがあんなに情けなかったことはない。
未だに苦い記憶である。

母に頼まずとも、お金さえ出せば作ってくれるところはいくらでもあった。しかし私はせめて体裁だけでも『手作り』にしたいと思い、母に頼んだのだった。
物は母のお陰で準備出来たが、『自分の手作りではない』=『自分は心を込めて準備出来ない母親である』という図式が私の脳内で勝手に出来上がり、物凄く凹んでしまった。
入園を心待ちにしている子供に対して裏切ったような、誰かに『お前はダメな母親だ』と責められているような、そんな気持ちになっていた。

女子力とは、世間一般が『女子』に期待する能力のことだと思う。女の子なら出来て当たり前、上手く出来ればなお素晴らしい、高い存在価値のある『女子』、そんなところだ。
その『出来て当たり前』の最低レベルにすら到達しない私のような人間は、『女子失格』のような気がしてしまう。自分は紛れもなく『女子』である。しかし『世間から期待される』『あるべき姿』の『女子』ではない。
言いようのない自己否定の感情がどうしても募ってしまう。

しかし今更、私が女子力を上げようとしても無駄である。私には女子力がないの、と落ち込んでいても女子力は上がらない。私は女子力がない、希少生物としてこの世に生まれたのだ。だから潔く諦めて、自分に出来ることをすればいい、と思うことにしている。
料理は下手だけれども、心を込めて作ることは出来る。失敗も未だにあるけれど、我が夫は幸いそんなことで文句を言ったり、不機嫌になる人ではない。美味しく作れれば喜んでくれる。私にはこれで十分だ。
裁縫は全くの不得手で、何にも出来ない。でもボタンくらい付けられる。いざとなったら出来る人に頼んでしまおう。出来ないものはしょうがない。開き直りも時には大切だ。

手早く美味しいものを作れたり、上手に裁縫が出来る人のことは本当に尊敬している。嫉妬するなんて畏れ多い。
でも多分、私はそういう人を一生羨ましがり続けると思う。