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死んだ魚の目になって

前にいた楽団の指導者Y先生はよくこんなことを仰った。
「周りの音を良く聴いてください」
周り、即ち仲間たちの奏でる音に耳をすませて神経を集中させろ、という指示である。

ともすれば私達素人は、やれ譜読みが、とかやれフィンガリングが、とか言ったことに演奏中の集中力の大半を持っていかれてしまう。そうすると最も大切な「自分は今仲間と共に一つの音楽を奏でている」ということが何処かに追いやられてしまって、孤独に筋トレに励むような演奏になってしまう。
一人一人が好き勝手に筋トレに励むと、まるでフィットネスクラブでめいめいが自分の好きなように課題に取り組んでいるような、なんのまとまりもない、ただそこに一緒にいるだけの演奏になってしまう。

最初はY先生の仰ることの意味が腹に落ちず、周りを聴くってピッチのこと?アインザッツ?ダイナミクス?とかいった具体的な理由を探ってばかりいた。
それらも勿論聴かねばならないものなのだけれども、先生の仰った「聴く」はそう言ったことではないんだ、ということに身をもって気づいたのはお恥ずかしい話、今の楽団に入って半年ほど経った頃であった。

そんなに待たなくても、実はクラリネットの師匠K先生がそうだったなあ、と思い出しもした。
K先生は「聴く」圧力が凄い。「聴くモードになるオーラ」とでも言おうか。圧倒的な集中力で、ほかの何も寄せ付けない。必死で聴いている。素人の私の音を聴こうとする時ですら、先生は全身が「耳」になっていた。
何も聴き逃すまい、とする執念のようなものを強く感じた。
「オケのステージにいる時は、周りの音を聴くことに神経の8割以上を使っている」と仰ったことの意味が、今は良くわかる。

Y先生が私たちの指導をなさるときによく引き合いに出されたのが、トランペット奏者のKさんのことである。
KさんはY先生の後輩で、大変有名な方だからテレビなどでもしょっちゅう演奏しているお姿を拝見するのだが、
「彼がオケで吹いている時の目をよく見てみて下さい。「死んだ魚の目」になっています。あれは聴くことに集中している時の目です。ああいう目ができるのがプロなんです」
という風に、いつも褒めていらした。
なんとも生臭いような例え方で、私たちはいつもちょっと失笑してしまうのだったが、Y先生は全く笑っていなかった。

そのお言葉をきいてから、私も機会がある時は気を付けてKさんの演奏シーンを観るようになった。そうすると、確かに「死んだ魚の目」というY先生の表現がしっくりくる目つきであることがわかった。
自分がそこにいないような、音と一体化したような、どこも見ていないような、身体中の神経が全部聴くことに向けられているような表情で、声をかけることも憚られるような雰囲気が漂っている。テレビの画面を通してですら、生唾を飲むような迫力がある。

プロと素人の違いは沢山あるけど、大きな一つはこの「聴くことに対する集中力」ではないか、と私は思っている。プロの演奏家の「聴く」は、「聴く」というより、「音に漂っている、同化している」という方がぴったりくるように思う。

エスクラは特にこの「聴く力」が求められる楽器である。
「死んだ魚の目」までは出来なくとも、聴くことにもっと集中力を向けられるようになろう。
定演まであと数か月。体力が回復したら、しっかり練習しなければ。