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初顔合わせ

今日は朝から一時間、Mさんが出勤してくるまでの間私以外誰もおらず、一人でレジ番をしていた。こういう勤務のことを私達は「お留守番」と呼んでいる。
師走の特売日で、結構忙しい。いつもと違って、高額商品をお求めのお客様もぐんと増える。
高額商品は鍵のかかるケースに入っており、お客様からご要望があれば開錠して差し上げなければならない。商品をお渡しして見て頂いている間は、ずっと傍について接客する必要がある。もちろん窃盗を防ぐ為である。
だから「お留守番」中に高額商品の接客が入ると、他部署から応援をもらわねばならない。
今日は運よく、お客様に呼ばれた瞬間にMさんが出勤してきたので、
「おはようございます。インポート(高額商品の略称)入りますんで、レジよろしくお願いします」
と言って接客に赴いた。

接客が終わり、発注作業をする予定のあるMさんとレジを交替しよう、とすると一人の男性客がレジにやってきた。いきなり私に訴えかける。
「あのさあ、排水溝がね、臭いの。臭いんだよ。臭いの」
喋りながら体をレジ台の上に入れてくる。
「はいはい、それは困りましたね」
笑顔で返事をしながら、身体をそっと引く。こいつはSさんを困らせている例の困ったお客様ではないか、という予感が頭をかすめる。
「排水溝をねえ、臭くないようにしたいの。なんか売ってるよね?」
「はい、お取り扱いございますよ」
「どこなの?案内してよ」
お客様の上半身は半分以上レジ台に乗っている。飛沫防止シートはめくれあがって、全く意味をなしていない。距離を取るのに苦労する。
「かしこまりました。こちらです、どうぞ」
固まってしまって息を詰めているMさんに笑顔で、
「ご案内行ってきます」
と言ってレジを出る。

排水溝掃除用のタブレットは日用雑貨品売り場にある。同じフロアではあるが、私のいる靴・服飾レジからは随分遠い。普通なら通路番号を伝えてお客様ご自身で行って頂くのだが、私の中で「コイツは用心しろ」という声が響いていた。商品を手に取れる所までご案内する。
「こちらでお間違いございませんか?」
「あ、そう、これこれ。三つ欲しいの」
「ではこちらからお取り下さいませ」
「いいの?」
やっぱり件のお客様に違いない。更に慎重を期すことにする。
「はい、どうぞ」
「これいくら?」
値段を表示したポップはすぐ目の前にある。読めないわけではなさそうだ。
「おひとつ二百円でございます」
お客様は嬉しそうな顔になった。もう大丈夫そう。ここで念押しする。
「お会計は食品レジで承りますので、よろしくお願い申し上げます」
「うんうん、わかったよ。ありがとう」
「ありがとうございます」
にこやかに挨拶して退散した。良かった、戦わずしてお別れできた。
勿論すぐに、食品レジ担当者に注意喚起のインカムを入れた。

帰ってくると、
「大丈夫でしたか?!」
とMさんが半泣きで駆け寄ってきた。
「あの人ですね?Sさんの例の人?」
と聞くと、
「そうなんです!わかってたんですか?!」
と言う。
私はこのお客様の存在は知っていたが、本人に直接お目にかかったことはなかった。インカムで「来てます」という連絡が入ることはあっても、自分が会ったことはなかったのである。
雰囲気でピンときたが、そんなに手こずらずに済んだ。本当にほっとした。

「まあ、私はSさんより三十歳近く年上ですから、触ろうって気も起きないですよ」
と笑うとMさんは、
「でもあんなに身体近づけてきて、気持ち悪いでしょう?」
という。まあ、気持ち良くはない。昨今のご時世としても随分不適当な距離の取り方である。上手に避けるしかない。
やがて課長が出勤してきて、Mさんから報告を聞くと、
「大丈夫だったの?!平気?」
と真顔で心配されてしまった。年は取っても、一応女だからかなあ。
課長も大変だ。気の休まる時がない。

困ったお客様にはよく感じることだが、このお客様もとても「かまって欲しい」のだと思う。
目を見て話すと嬉しそうだし、へんちくりんな問いにも真面目に答えると喜ぶ。ご案内するとニコニコする。誰かが自分の言うことを丁寧に聞いてくれるのが嬉しいけれど、自分の性癖故普段はそれが満たされていないのだろう。
寂しさの解消が最優先事項になっており、「自分が人に迷惑なことをしている」という意識が飛んでいる。それは由々しき問題だ。
しかし周囲が警戒し、自分から距離を取る様子は敏感に感じ取るのだろう。だから寂しくなっていら立つ。手っ取り早く触れようとする。
益々周囲は警戒し、遠ざかる。自業自得とは言え、悲しいことだ。

この日はもう一人の大変なお客様も別の階に「降臨」した。
「年末あるある」だそうだ。師走もあと十日ほど。くわばらくわばら。